思い出の中の海

宇宙船から見た地球

 

 僕の家から、海はそれほど遠くない。何だったら自転車を飛ばして数十分もすれば見にいける距離だけど、だからといって別に頻繁に目にするようなこともない。水平線を見ているとどうしたって地球は丸いんだなと思わずにはいられない。海の広大さ、なんていう陳腐な言葉を発する必要なんてないのだろうけれど、実際に目にしたら思ってしまうから仕方がない。

 写真や動画で見る海も好きだが、それがすべてではない。快適な部屋のなかで享受できる感覚なんてたかが知れている。実際に空気感や手触りを通して、僕たちは景色というものを記憶のなかに大切にしまい込んでいる。それを時々思い出してどんな気持ちになるのかは、その人の人生次第であるが……。

 心打たれる景色といえば色々あるが、世界中の人が目にする海はどこでだって同じ「おおきなみずたまり」の一部であるという、他にない特徴が僕の心をひきつけてやまない。地球の70%が海に覆われているなんて普段は意識しないけれど、実際に目の当たりにすると「確かになぁ」とちゃんと思えるから不思議である。わざわざ宇宙船に乗って窓からのぞき込まなくても理解できる。

 

和歌山の白浜

 

 子供のころの記憶で一番印象に残っている海の景色は、和歌山の白浜だ。日本のパンダの総本山、アドベンチャーワールドに連れていってもらって、そのついでに海辺にも寄ってくれた。兄と二人で砂浜を歩き、その景色の広さに驚いた。とっても綺麗な貝殻を見つけて、それをポケットに入れて持って帰って家に飾っていたので、その巻貝の抜け殻を見るたびにあの海の景色を思い出した。

 あのときの僕たち兄弟はとても仲が良くて、もちろんけんかもしたけれど、いたって平和的な関係性を築けていた。僕は兄のことを慕っていたし、なにより2歳離れている分とても大きく見えていた。

 だけど僕が中学生になってから、すべてがめちゃくちゃになった。誰が悪いのかといえば、明らかに僕が悪い。言い訳をすると、精神的にまだ成長していなかった僕が引き起こしてしまったトラブルのひとつなんだと思う。今もまだまだだけど、当時は特に感情というものに支配されやすい傾向にあって、兄と口を利かない日々が永遠と続いている。

 

 そう、今でも。

 

 あれから十数年間、僕は兄とほとんど口をきいていない。電話番号もLINEも知らないし、今どんな仕事をしているのかも知らないし、どこに住んでいるかも知らない。兄が大学進学のために他県に移り住んだとき、僕は母に「彼についての情報の一切を伝えないでくれ」と頼んだからだ。

 別に今では怒りも悲しみも湧いてこないが、それと同時に慕う感情もどこを探しても見当たらない。彼女にこの兄との関係性を話してみたらとても驚かれて、何故歩み寄ろうとしないのかと怒られた。確かにその通りだと思う。でも、なぜそれをしないのか僕も分からないのだから、この問題は冷凍庫の奥の奥にひっそりと隠されているべきではなかろうか。どうだろう……。

 和歌山の海で拾った貝殻は大分長い間リビングに飾られていたけれど、気づかない間にそれはなくなっていた。兄との思い出の貝殻。まだ仲が良かった頃を象徴している気がしてならなかったその貝殻はもうどこにもない。僕が貝殻を探そうと試みる日は来るのだろうか。

 

車窓の海

 大学生の頃、僕は初めてお葬式というものを経験した。父方のおじいちゃんが亡くなった。生前は毎年、お盆と正月に顔を合わせて、小学生の頃だとおじいちゃんに連れられてバッティングセンターもある多少大きな複合施設で楽しい時間を過ごしていた。鯉が泳がされている釣り堀で渡された練り餌の臭いは今でも覚えている。

 そんな楽しい思い出を共有していたおじいちゃんが亡くなったというのだから、僕にはとてもショッキングだった。ただ、80歳を超えていて、最後の方は加速度的に老いていくおじいちゃんを知っていたから、茫然自失とまではいかず、漠然と人は本当に死ぬんだなと客観的に考えていた自分もいた。

 亡くなる1年前には認知症が相当進んでいて、施設で見たおじいちゃんは全く別人のようだった。こんな言い方はよくないんだろうけれど、施設の雰囲気はどよんとしていて逃げ出したい気持ちでいっぱいになった。今思うとこの時の方がよっぽど僕は動揺していた。目の前に座っても視線が合わない落ちくぼんだ両目からは終わりの気配しか感じられなかった。

 

 訃報を聞いて、僕と母はおじいちゃんのもとに急いだ。兄は他県にいて、父も単身赴任の身だった。僕は大学の講義をほっぽり出して家に帰って、母と最寄り駅に向かった。電車にゆられながら、特に何かを話すでもなく着々と目的地に近づいていく。車窓からはビルやアスファルトが消えていき、どんどん田舎っぽさが増していく。当時スマホを持っていなかった母は、どの駅で降りたらいいか調べてほしいと僕に尋ねてきた。普段は盆や正月の父が帰ってきたタイミングで車で行っていたから、僕も全く分からなかった。

 おそらくここが近いだろうと検索した結果を母に伝えた頃、電車の窓からは海が見えた。陽光が水面をキラキラと反射させていて、その時の僕にはとても幻影的に見えた。普段この電車で通勤・通学する人たちからすれば当たり前の景色だろう。夕暮れというにはまだ早かった。当たり前じゃない状況の僕の目がとらえたその景色は、とても特別なもののように思えてしまった。

 父も急遽戻ってきて、翌日葬儀が執り行われた。冠婚葬祭の初めてが「葬」だなんて少し嫌だったけど、そんなものどうしようもない。湯灌(ゆかん)というものも初めて目にして、葬式ってこんな感じなんだなと漠然に思いもした。ちなみに焼香の回数を間違えたことは今でも忘れられないでいる。ただ、やっぱり僕の中であの車窓の海が一連の出来事の象徴として記憶に残っているのは何故だろうか。

 

Osaka Bay from Osaka

 

 大学を卒業して、ピカピカの新社会人として頑張れたのは、せいぜい半年だった。普通の生活を送っている人は、その「普通」であることの素晴らしさに気づかない。手からこぼれ落ちたコップの水がつくるアスファルトの黒い染みを、ひどく恨めしそうに睨んでからでは手遅れである。こんな僕が言うと自己肯定にしか聞こえないけれど、一度転んで擦り傷(あるいは回復に時間を要する深手?)を負ったからといって、それで人生「BAD END」ではない。大切なのは向上心ではなかろうか。

 ただ、傷は傷で、痛いものは痛い。あのときにああすれば、なんて後悔を繰り返す無為な時間を過ごす馬鹿らしさに気づきながらも、そうせずにはいられないのである。何もかも合理的に自分の思い描いた予測線の通りに物事を推し進められる人はとても素晴らしいと思う。そして、僕にはそれが出来なかったという話なのであるが。

 それ以来、人と比較するという癖が出来た。大学の友達や、彼女や、ネットに転がっている経験談が、その比較対象になった。その度に相対的にどれだけ劣った人間なのかを意識して、劣等感で押しつぶされそうになる。今でもこういう思考の迷路に閉じ込められることはあるが、できるだけ目を伏せて気づかないふりをするしかないのがつらいところだ。

 

 正社員を辞める直前に、彼女と海に行った。8月中旬で夏真っ盛りの猛暑だった。気温も湿度も高く、Tシャツが汗で濡れてとても不快だったのを覚えている。泳いでもいい場所だったけれど、別に2人ともそんなつもりはなくて、ただ夏らしいことの一つとして海に行っただけだった。

 当時まだ大学生だった彼女が、サンダルを脱いで足を海に濡らす。僕は最初それを見ているだけだった。彼女は立派なところから内定をもらっていた。それとは対照的に僕は希望をもって入った企業に、その希望を置いて出て行く決断を済ませていた。景色が広くて、遠くの方には霞んだ市街地が見えた。大阪湾は確かに湾曲していた。

 彼女に誘われて僕も靴を脱いで海水に足を浸す。泳ぐわけではないけれど、海に入るなんていつぶりだろうか。足の指を通り抜ける小さな砂の粒と海水がくすぐったい。近くには海藻が漂っていて、手に取ってみると当たり前だが普段みそ汁に入っている奴とは雰囲気が違った。水温は太陽光にさらされているせいか、それほど低くはなくて、心地よかった。そこには彼女と海と僕という、手触りのある確かなものだけが存在しているというシンプルな事実があった。

 

思い出の中の海

 

 海に限った話ではないけれど、自然が自己主張をしてくることなんてないし、押しつけがましいことを言ってくるなんてことはない。いつだって人間がそれを勝手に見て、勝手に解釈しているだけである。海を見ているようで実は、僕たちは僕たち自身の内面に向き合っているんだと思う。そこに意図や道筋なんてないからこそ、その広大な景色を前に十人十色の切り取り方をしているのだろう。

 僕の思い出の中の海は、その当時の心境というものを強く反映させている。海辺に住んでいればまた違ったかもしれないけれど、人生の節目節目で再開するあの景色には何かを思わずにはいられない。海にはそんな力がある。