商品名:若い時の苦労

 昔から、時々何もかもがどうでもよくなる瞬間がある。家族も友達も恋人も、そのどれもから色が抜け落ちて背景になる。綺麗なベッドメイキングをひとっ飛びに、ないものにするように。疲れているとか、人生に退屈したとか、そういうよっぽどの理由などない。それは唐突にやってきて、あらゆる意味を消し去っていく。

 世の中はいろんな人が言うより、悪くはない、と僕は思っている。テレビをつけると誰かが誰かを傷つけたり、貶めたり、そんな話を多く耳にするけれど、一般的に何か巨大な悪を突きつけられた経験はあまりしたことがない。いや、全くと言っていいほど僕は平和な中ですくすくと育ってきた。お腹が空いてどうしようもなかったり、暴力におびえたり、そんな日々は僕の遠いところにあった。

 そんな日々だからこそ、僕はそれを時々壊したくなった。熱くもなく、寒くもない。突如として村上春樹が描く小説のような物語に巻き込まれたりしないだろうかと思ったりもした。ただ、これまでも、これからも、そんなことはない。現実は小説より奇なり、なんて言葉は、凡人には笑っちゃうような言い回しである。今にでもねじまき鳥の鳴き声が聞こえて来やしないだろうか。

 

 36.6度。平熱。

 

 気温でいえば23度か24度くらいが心地いと思う。もちろん湿度にもよるが。そんな退屈で代り映えの無い日々を大学生までは過ごしていた。お金はあまりないけれど時間だけがどこまでも有り余っていて、アマゾンプライムで映画を見まくったり、小説を読みまくった。何なら、少しだけ書いてみたりもした。お粗末な短編小説が出来上がっただけだけれど、そのころはそれだけで舞い上がって仕方がなかった。

 ベタだが『四畳半神話大系』を読んで、僕の妄想は捗った。もしあの時、あの選択肢を選んでいたら、大学生活はもっと華やかなものになっていただろうかと考えずにはいられなかった。別に困るほど退屈をしていた訳でも、友達が一人もできなかったとかそういうわけでもなく、むしろある程度までは充実していた。だけど、やっぱり人は可能性というものに心惹かれてしまうものである。

 何かに熱を出すということを僕はしてこなかった。この試合に負ければ僕たちの夏が終わる、とか、そういう類の奴である。生粋の文化部であったし、そもそも自分のすべてをぶつけることがとても怖くてできなかった。おかしな話である。散々可能性がどうのとか、時々すべてを消し去りたくなる破壊衝動を内に抱えておきながらこんなことをいけしゃあしゃあと言えてしまうなんてお笑いだ。つまり、そういう人間なのである。

 

 ただ、やっぱり人生そう簡単にいかないもので、僕は就活で散々痛い目を見た。本気で自分のすべてをぶつけることが怖くて、「失敗するだろうなぁ」「ほら失敗した」と伏線を張って面接に臨んでいて、そのくせ誰かが就活に一生懸命向き合っているのを見て冷ややかな気持ちに「まだ社会人でもないのに」と彼のびっしりの手帳を内心笑ったりもした。一方で焦る気持ちもあり、その後本屋で手帳を買った僕はなんてピエロなんだろう。

 新卒で入社したところを半年たたずに辞めてしまった。なんて自分は惨めなんだろう。その後の2年半のアルバイトの日々で何度も思った。「出」のボタンを押してから紙のタイムカードを上から差し込む。ガコッと音がしてのそっと戻ってくる。それをつかんで壁に掛っているタイムカードのねぐらに勢いよく突っ込む。そんな日々が永遠と感じられるほどに続いていく。

 バイト先には僕と同じくらいの年の20代が3人いた。結局最後まで心の内のすべてをさらけ出すことはできなかった。ただ、彼らの姿を僕の目にうつしているとき、一方で彼らも僕の姿を目にうつしている。

 ある日僕はそのうちの一人に、少しだけ奥まった部分の話をした。

「やっぱりアルバイトのままなのは、そういうのはちょっと”アレ”ですもんね」

 4畳半程度の休憩室で弁当をつつく彼の手が止まる。

「そうっすね。俺も最近正社員のところの求人見てたりしますし。ここで正社員になるのは、もう正直……」

 僕以外の2人はアルバイトから正社員に登用されるのをずっと望んでいた。

「でも○○さんは資格取ったら、就職活動始めるんですよね?」

「そうですね、そうなればいいですけど」

 

 僕はこのアルバイトに入るその時から、資格取得を目指していることを周りに話していた。そもそもの話、大学の頃にアルバイトをしていた先に戻ったので、ほとんどの人が元々知った顔だった。彼ら彼女は、そんな僕の境遇を理解し、何度も励ましてくれてとてもありがたかった。

 新卒入社した会社を、僕の精神の弱さ故に辞める予定であることをLINEでその中の一人に伝えてみたら、その話が店長に伝わって、「戻ってこい」と言ってきてくれた。予定を合わせて仕事終わりに久しぶりに店長と会って、ご飯を奢ってもらって話を聞いてもらった。その場で「○○なら即戦力だし、戻ってこい」と力強く言ってくれた。そのこともあって僕は正社員という地位を即座に捨てることにしたのだった。

 あの選択は、今になって思えば悪くはなかったと思っている。実のところ最近、アルバイトを辞める前に、2年半前に僕が配属されて働いていた店舗に足を延ばして、その会社の現状をこっそり聞かしてもらったが、燦々たる具合だった。僕に「3年はいないと」と言っていた一つ上の先輩は転職、僕の辞職をすんなり受け入れた店長も転職、近隣店に配属された同期も転職、そこの店長も転職。別に悪口を言いたいわけではない。ただ、僕のあの選択は間違いではなかった、っぽいということである。

 そこから僕は会計の勉強を始めた。とにかく、自分の価値を目に見える形で、手で触って確認できるものが欲しかった。そうなれば話は資格に行きついた(もちろん僕に限った話である)。アルバイトをしながら、毎日勉強をつづけた。別に誇張をしているわけではなく、人間窮地に追い込まれるとここまで本気になれるんだと知れた。長所なんて僕にはないと思っていたけれど、腐らずに頑張ったその実績はリストに加えてもいいと我ながら思ったり。

 

 ただ、精神は確実に摩耗していった。簿記2級に合格して、経理としての転職を望んだけれど、うまくいかなかった。そもそもこの資格自体も、そこまで難しいものではなかった(誰かを貶したりする意図はありません)。8月に辞めて試験のある12月まで毎日毎日テキストを開いて問題集を解いたが、たった3か月である。もちろん僕の勝手な解釈だけれど、簡単に取れてしまうものに価値を見出すことが難しくて、より資格という部分で上を目指したくなった。だからこそ転職(?)活動で、この資格一本で売り出す勇気が出なかったのだ。

 季節は一巡りして、夏になった。8月に辞めて、そこから1年後、僕は税理士試験の受験会場にあった。会場は某大学。家から1時間程度で着いただろうか。降りたこともない駅にそわそわし、見たこともない教室の風景のなか、2時間の試験を受けた。

 税理士試験について明るくない人に説明すると、そもそも「税理士試験」というものがたった一つ存在しているわけではなくて、「科目合格制」が採られている。5科目合格して(試験以外のパターンもあるがここでは省略)、それに実務経験を2年間経て、晴れて税理士になれる。ただ、「自分の好きなものだけを受ければいいじゃん!」というわけではなくて、「これとこれは絶対取ってね!」みたいなのがって、それが簿記論と財務諸表論というものである。この2つを合わせて「簿財」なんて言ったりもする。

 

 ただ、受験資格というものがあって、有名なのだと簿記1級だろうか。僕も税理士試験を受けるにあたって、簿記1級を受けなくちゃいけないのかなと思っていたけれど、よくよく調べてみれば、大学で一定の科目を履修していたら、そんなものでも受験資格の要件を満たすことが書かれてあった。大学生の頃の自分は、将来自分が税理士試験を受けるだなんて想像もしていなかったけれど、たまたまそれに適合するものを履修していて救われた。もちろんアルバイトをしているなんてことも当時想像もつかなかったであろうが。補足だが、最近になって受験資格が一部緩和されて、先ほどの「簿財」は誰でも受けられる試験になったらしい。

 予備校に二十余万円を払う。正社員時代の少しの貯金と、アルバイト時代のもっと少しの貯金が一瞬で吹き飛ぶ。親に金を出してもらうのは気が引けたし、身銭を切ってこそ努力できるとも思った。そして、本当に必至の思いで勉強をした。もちろん人それぞれだけれど、僕はアルバイトのままで終わる気は絶対なかった。

 高校・大学の頃の友達とは徐々に疎遠になった。一部の心優しいつながりを持ち続けてくれている人たちの存在はとてもうれしかったけれど、彼らの生活とのギャップを感じずにはいられなくてとても苦しかった。いつの間にか僕はとても卑屈で敗北者みたいな振る舞いをするようになってしまった。この現状を打破するためには勉強するしかない。毎日そう考えていた。

 

 ふと、改めて立ち止まって考えると、あの頃僕がずっと抱えていた平熱の感覚というものは消え失せていることに気づいた。退屈で代り映えのしない日々に嫌気が差すのではなく、どうしようもない絶望に心苦しめられている。朝、目が覚めて、「これってマジの現実なんだ……」と苦笑いしたことが何度かあった。

 僕のちょっとしたプライドはズタボロにされて、雑巾にするにも布が足りなくなっていた。サービス業だったから土日は基本出勤なので、たまには息抜きをしようと、ある休みの「平日」に一人で出かけたことがあった。どこでご飯を食べようかなと考えながら、お昼の街を歩いていると、そこには多くの「働く大人たち」が僕と同じように昼ごはんのために闊歩している姿を見た。それがあまりにも遠く感じられて、直視するにはあまりにも眩しすぎた。

 アルバイトの生活が長くなるたびに、夜を好むようになった。出勤は夕方から深夜までだったので、そこから朝まで勉強して9時に寝るようになった。僕を見捨てずに、たったわずかな可能性を信じて関係性を保ってくれた彼女と、朝、連絡を取る。出勤のために電車に揺られる彼女と、布団の上で就寝前の僕。こんな生活が長く続いていくうちに、別になんてことのない普通の生活に対して異様なまでにあこがれを抱くようになっていく。

 

 そして、僕は初めての税理士試験であった簿記論で、合格を勝ち取ることはできなかった。8月に試験があって、発表があったのは12月。合格率はおおよそ15%くらいだったと思う。正直、試験が終わった瞬間に合格は難しいだろうなと思ってしまった。心の底の底まで悲しくなってしまって、電車に乗らず試験会場の某大学からてくてくと方角も考えないままに歩き続けた。

 しばらくすると雨が降り出してきた。小説のなかで雨が降り出すと、それは暗喩になったりするけれど、現実でもこんな最低な状況で雨が降り出すものだから余計憂鬱になった。見たこともない景色しかない町を一人歩く。僕を快く受け入れてくれた店長が、このあたりの店に転勤になったから、そこを訪ねてみるのもいいなと思ったけれど、そうえいば具体的な場所を聞くのを忘れていたことに気づいた。わざわざこんな状況で会って何を話すかも思いつかないけれど。

 結局、そのままイヤホンから音楽を垂れ流しながら、足が疲れてどうしようもなくなるまで歩いた。そのまま電車に乗って、家に帰る。見慣れた景色。昔から姿かたち変わらない実家。家に戻って、ベッドの上に乱暴に横になってしばらく眠ることにしたけれど、どうしたって入眠できない。これから自分はどうなるんだろうか。来年も受けるんだろうか。僕には勉強の才能がないんだろうか。そういうことを考えているうちにどんどん絶望していって、少しだけ泣いた。少しだけ。

 合否発表は12月に郵送でやってきた。確か金曜日に発表だけど、当日には来ず、土日を挟んで月曜日に来たと思う。封筒を開けるとき、手が震えた。でも、やっぱり落ちてるんだろうな。そう思って開けた。やっぱり、落ちてた。「簿記論」の得点に「50」と書いてあった。合格なら点数は分からず、「合格」+「年号」が入るんだと、そのときの通知書で知った。ちょうど同時期に予備校の合同就職説明会に行ったけれど、どうしても今の僕には無理だなと最初からあきらめていたので、実際に面接まで進むことはなかった。

 

 試験勉強は続く。

 

 また予備校にお金が消えていく。再度、簿記論を受講するために手続きをした。そもそも試験が終わった直後に別の科目である財務諸表論の授業に、これまた二十余万円落していたから、総計60万円以上が予備校に消えていったわけだ。お金というものに固執しているわけではないけれど、だからこそこんなに大きな買い物をしたことはなかったから、その分より精神的につらかった。増えない銀行口座のゼロ。

 一方でこの状況を楽しんでいる、おかしな自分もいた。何か物語の主人公のような、そんな高尚なお話になるわけでもないのに、「逆転」だなんて面白おかしく捉えている側面もあった。むしろそう考えでもしない限り精神の安定を保てなかった。今、こうしてアルバイトをしながら試験勉強を続けている、そんな将来どうなっているかわからない現実を直視するのが怖かった。小説というフィルターを通してでしか自分を見つめることが出来なかった。

 また、季節が一巡りした。簿記論と財務諸表論を受けに、去年とは違う会場に向かう。今度は大学ではなく、どこかの巨大な施設だった。その日はとても熱くて、試験会場に向かうまでにすでにへとへとになっていた。Tシャツが汗に濡れて背中に張り付く。会場のクーラーで涼みながら試験会場を見渡して、去年ももしかしたら会っているかもしれない人がいるかもな、なんてそんな気持ちで冷静に椅子に座っていた。

 2時間の試験を、2回受けるのはなかなかしんどい。簿記論・財務諸表論の2科目はとても内容が似通った(一般的にこの2つは会計科目として一括りにされる)ものであるから、同年の受験というものは割と一般的である。相乗効果というものも期待されるし、実際に僕自身もそれをひしひしと感じた。午前中に簿記論を受け、お昼を挟んでから財務諸表論を受ける、おおよそ15時に解放されて、心は晴れ晴れとした気持ちになった。ひとまず受かっているとか落ちてるとか、そういうのではなく、1年間、いや2年間頑張った自分にご苦労様と言いたくなった。

 

「どうだった?」

「まぁ、五分五分かな」

「どっちも?」

「どっちも」

 家に帰って、母に聞かれてそう答えた。実際、予備校の解答速報で採点をしてみると、ボーダーギリギリであった。税理士試験というものは絶対評価ではなくて、受験生に占める合格率を加味されて、合格点が設定されている、らしい。でも年度によって合格率も違うから、そこらへんはブラックボックスなのだろう。そのあたりをつついて文句を言いたくなる気持ちも分かる。

 

 試験が終わって数日、バイトも休みだったから数日、朝から晩までゲームをした。そのとき、ゼルダBoWを恐ろしい時間やりこんで、たった数日でプレイ時間は100時間を突破した。圧倒的な解放感。だけど、その日々もいつしか終わり、バイトを再開し、新たなる「法人税法」という科目の勉強が始まり、また予備校にお金が消えてく。

 今年落ちていたら、税理士はあきらめようと思っていた。反対にどちらか一方でも受かっていたら、まだまだ頑張っていこうと決意した。そもそも、2年も無駄にして何も得られなかったら、本当に人生を捨ててもいいくらいだ。家族も友達も彼女もすべてを置いて、一人でどこか遠くの地に行こうと考えたりもした。死ぬことも少しちらついたけれど、それをする勇気は僕にはないことは明白であった。

 ただ、その何もかもを捨て去るということを、かなり現実味をもって考えるようになった途端、怖くて仕方がなくなった。昔あれほど感じていた感覚は、ただの甘えだったんだろう。退屈だとか、マンネリだとか、そういったものに縛られながら、それと同時にそんなルーティーンに心の平穏を保ってもらっている。そういうことに気づけた僕は少し成長したのだろうか。太宰が「大人とは、裏切られた青年の姿である。」と言ったらしい(高校の現代文の教師曰く)が、その意味が少しだけ分かった。

 

 そして合格発表の日がやってきた。去年と同じく郵便でやってきたそれを手に持つ僕。震えが止まらなかった。いったん落ち着こうとアイコスに持ち変える。この結果が、別になにか人生の選手生命を終わらせることはないだろう。そもそも、どちらも受かっていたとしても、あと3科目ある。通過点でしかない。そう言い聞かせていたけれど、手の震えは加速する。

 封筒を開ける。再生紙の手触り。12月の少し寒い空気。どちらも合格だった。涙が出た。母に伝えると、同じように嬉しそうに泣いた。夜、仕事終わりの彼女が待ち合わせ場所の改札で泣いて抱きしめてくれた。彼女の手に握られた花が少し窮屈そうにしていた。合格したのももちろん舞い上がったけれど、これを自分のことのように喜んでくれる人たちの姿のほうが、よっぽど嬉しかった。

 それから僕は本格的に就職活動を始めて、それはあっという間に終わって、今、僕は某税理士法人で正社員として働いている。まだ分からないことも多くて、ちょうど繁忙期に入社したということもあってかなり忙しいけれど、とても充実した日々を過ごしている。法人税法の勉強が少し(いや、かなり)疎かになってしまっていて、それが最近の悩みの種であるが。ただ、それでもやっぱり、あの頃アルバイトをしていた頃とは違う自分になっている。別にその過去を捨てたいとかそういう話ではなくて、受け入れた上で今の自分を素直に褒めたい。他人事のように言うが、勉強も頑張ってほしい。

 

 このブログについて。そもそも、何故このブログを書き始めたのかというと、試験が終わってから、僕の人生がこれからどうなるのかを考えたときに、とても不安に思うことが多くて仕方がないから、気を紛らわせるため、というのがきっかけだった。別に何か成し遂げたいとか、有名になりたいとか、そういうものではなくて、ただ自分が冷静さを保つだけに文章を書いていた。

 そういう意味では、このブログは役目を終えてしまったのかもしれない。12月を過ぎたころからこのブログについて見向きもしなくなった感もあるし、そもそも誰もこんなインターネットの端っこの文章を好き好んで読んでくれる人なんてそういない(せっかく読んでくれている人がいたならごめんなさい)。ただ、自分が読み返すためだけに、その役割の為だけに書いていた。本質はできるだけ避けて、過去の話を書き留める。大学生の頃は盛んに日記を書いていたから、そのころの文章を読み返して、はたまたある部分をコピペして、完成したものもある。

 ただ、需要はないかもしれないけれど、文章を書くことはかなり好きなので、これからも続けていきたい。今までWordに蓄積された自分が見るためだけの文章を、とりあえず誰かに見られる「かもしれない」環境に公開することで、メリハリが生まれる。もちろんその上で面白くないと思った人がいるのなら、それは素直に申し訳ないと思っている。ただ、言い訳をすると、僕はそれほど面白い人間でもないし、ある部分で人を不快にさせてしまう可能性も秘めている。

 よく、環境が人を変える、なんていうけれど、かなり的を射ていると思う。周囲にお前はダメだと言われ続ける人が、成功への望みを捨ててしまうことなんて大いにありえる。僕の文章はポジティブとは言わないけれど、ネガティブにはならないように気を付けていく。平常運転の36.6度で。これからも更新したいので、もの好きな方はどうぞご愛顧いただればと……。

昼夜逆転フリーターの苦悩

混まない電車

 

 フリーターの僕の生活は15時から始まる。携帯のアラームと時計を15時にセットしているから、数秒の時間差はあるものの二つのアラームが僕を起こしてくれる。やれやれ、今日も一日が始まった。しかし、窓からこぼれる陽光に力はない。30分で身支度を整えて最寄り駅までてくてくと歩く。

 電車が混むことは、まずない。この時間に出勤する人間なんて世の中に多くはない。もしかしたら5%もいないかもしれない。また土日祝日もお盆も年末年始も出勤していたから、休日の彼ら彼女らの楽しそうな表情があまりにも輝かしくて直視できなかった。僕たちは自分が人生の主人公の気持ちでいるけれど、他人からすればどうだっていい奴の一人でしかない。でも、やっぱり「この時間に出勤している僕ってどういう風に思われているのかな」なんて考えてしまう。

 タイムカードを切る音が好きになれなかった。縦長の紙を機械の上部に差し込むと勢いよく吸い込まれる。時間が刻印されて紙がにょきっと生えてくる。時給という概念は不思議である。僕たちの人生について、1時間ごとに区切って「金」に換算した価値を決定づけてくるのだから、社会というものは興味深い。別にそれが嫌だとか、社会が間違っているとかを言いたいのではない。それに対して「興味深い」と思ったことに気づいた自分を笑っているだけだ。

 

Y=1

 

 フリーターとしての僕の仕事は、別に大したものではない。頭脳労働なんて言葉があるけれど、全くもってそれの逆の仕事をしていた。接客業だけれど慣れれば頭を使うことなんでどんどんなくなってくるし、ある種の慢心によって時間の経過も早くなる。毎日同じような光景を見ているから、「嫌だなぁ」なんて思うこともなくなる。日記をつけるならば「〇時から〇時まで働いた」という、たったそれだけの言葉で完結するくらいには、面白みのない仕事になっていた。

 でも、どんな気持ちで働いても、どんなに頑張っても、時給は下がりもしないし上がりもしない。昇進もなく降格もない。それがフリーターというものである。ただ、僕がそこで正社員を目指していなかったというのも要因だろう。もちろん時給が上がるような職場もあるけれど、僕が2年いた間に、時給が上がったという人を一人も知らない。上がったことをわざわざ言う人がいないということなのかもしれないが。

 店が閉まり、終礼が終わってタイムカードを切る瞬間を嬉しく思わなくなったのはいつからだろうか。最初の頃は「ようやく終わった」なんて思いながら嬉々として制服から着替えたけれど、いつしか何の感情の起伏も湧いてこなくなった。昨日と今日と明日の区別はない。タイムカードが日ごとに黒くなっていくだけで、僕は何の成長も感じられない。昨日よりも今日が、今日よりも明日がより良いものになるから、僕たちは希望を感じるのではなかろうか。仕事に慣れてからは、棒グラフでいえば「Y=1」みたいな線がどこまでも伸びている心理状態で、それはいつになっても終わりのない数学上の厳密な定義の「直線」のように感じられた。真っ暗な、トンネル。

 

朝の9時に寝て、昼の15時に起きる

 

 家に帰るころには日付が変わっている。実家暮らしだから、最初に冷たい湯舟を「追い炊き」するところから始まる。その間に母が少し置いてくれている晩御飯の残りを、電子レンジで温める。台所の床に胡坐をかいてそれを食べながらYouTubeをよく見ていた。

 

「お風呂が沸きました」

 

 風呂から上がって自分の部屋に入るころには既に1時になっている。ANNが1時から始まるから、一時期自分の好きなパーソナリティのそれを心待ちにしていた。ラジオを聴きながら、あるいは音楽を垂れ流しながら資格の勉強をするのが僕の夜だった。時折勉強が嫌になってベッドで横になってYouTubeだけを見ることもあるけれど、どうしたって今の生活に不安を感じてしまって、そんな気の迷いを振り切って一心に机に向かった。これほどのやる気をあの頃に使っていれば、と何度も思ったけれど、そんなこと言ったって何の解決にもならないし、僕の引き出しはタイムマシンじゃないし、押し入れに青いタヌキもいない。

 気づいたら太陽が昇ってくる。日の出の時間で季節を感じることができるので、それが少しだけ楽しかった。僕の一番好きな時間は夏の4時だけど、これを共有できる人は少なくとも僕の友達に一人もいない。でも、まだ僕は寝ない。まだまだ勉強は半ばで、朝の9時に寝るから、あと数時間はテキストを読んだり問題を解いたりすることが出来る。

 そう、僕は朝の9時に寝て、昼の15時に起きる。もちろん、バイトが終わってすぐ寝ればいいのだけれど、出勤時間という強制力に合わせて生活するためには、起床時間を15時にする他なかった。出勤で電車に乗る彼女と就寝しようとベッドで横になる僕は、よく朝に連絡を取っていた。彼女が一生懸命働いている間に僕はすやすや寝ていて、彼女がすやすや寝ている間に、僕は一生懸命勉強していた。そんな生活が2年以上も続いたのは本当に不思議なことである。

 

 

 

 

 

口内炎に醤油が染みる小旅行

口内トラブルの見本市

 

 口内炎が出来た。下唇の左側の違和感に朝起きて気づいた。ストレスや栄養不足などで口内炎はできるらしい。鏡の前でチンパンジーがびっくりするくらいに唇をひん剥いてその様態をまじまじと観察した。真ん丸な皮膚の異常。今までの人生で数多くの口内炎をこさえてきたが、この特殊な痛みにはなれないものである。

 そのせいもあり、同じ個所を唇で何回か思い切り噛んだせいで、今では5つくらいの傷口が出来てしまっている。鏡で経過を観察するたびにその異常さに、むしろ面白みを感じてしまうほどである。おそらく食事のときにその傷を意識しながら顎を動かしているせいで、なおのこと傷を作っている。通常の傷口であればオロナインを塗って絆創膏を貼っていればいつの間にか治っているものだが、今回に限って言えば治るごとに新しい傷を作り続けているので、おそらく2週間くらいは同じ個所を痛めている。

 別件ではあるが、子供のころから顎が鳴る「顎関節症」でもある。痛みを伴うことはまれであるが、顎を鳴らす癖がついていて、いつでも違和感が付きまとっている。また最近抜歯をしたけれど、以前までは右上の親知らずが今になってメキメキ生え出してきて、皮膚を貫く痛みで普通の生活を送るのには厄介すぎる状態でもあった。さらに、冷たいものが苦手で、おそらく知覚過敏だと思う。僕の口関係の疾病(症状)は常に僕の頭の中の1割くらいを支配している。

 

海鮮丼は、うまいが痛い。

 

 休日に彼女と小旅行に出かけた。電車で数十分揺られて他県に赴いたが、残念なことにその日の僕の体調は芳しくなかった。熱があったわけではないけれど、お腹の調子がすこぶる悪かった。朝、トイレに入ったとき、「今日は波乱の予感がする」と思ったけれど、その予測は見事に当たった。電車の座席に座っているとき、何度目かの便意の波がやって来て、冷や汗が止まらなくなった。彼女に断りを入れて次の停車駅でトイレに走った。

 田舎だったので電車の本数が限られており、ドラッグストアでストッパを買った後、1駅先の目的地まで歩くことにした。そもそも昔から頻尿気味でもあり、トイレに行く回数が彼女の3倍くらいはある。旅行のたびに僕がめちゃくちゃトイレに行くから、彼女もこの奇行にはなれたものである。申し訳ないと謝りながら、他愛のない話をしながら僕たちはてくてくと歩いた。

 昼ご飯をどうするかの話になって、彼女がインスタグラムで周辺のご飯屋さんを探す。ここの海鮮丼があるお店がいい、と言ったものだから、僕は内心どきっとした。今の僕は口が傷だらけなので、醤油が恐ろしく怖い。だけど完全に立場が下になった僕からすれば何の反論の余地もなく、そのお店に入ることになった。海鮮丼が売りのお店で海鮮丼以外を頼むなんてことは僕にはできない。何なら肉より魚の方が好きな僕だけれど、醤油を垂らした刺身の本当の感想は「痛い」だけど、ぐっとこらえて美味しいねなんて無理に笑った。左側を出来るだけ避けてもぐもぐする海鮮は、うまいが痛い。一方であら汁は、うまいし痛くなかった。

 

「健康」とかいう当たり前の話

 

 口内炎が出来たら、チョコラBBがいいらしい。果たしてどんな成分が入っているのかは分からないけれど、おそらくビタミン的な何かが入っているのだろう。今はチョコラBBとビタミンCの錠剤を毎日飲んでいる。毎日これらを飲むたびに、早く治りますようにと唱えながら水で流し込んでいる。ただ、時折新入りの傷が登場するので、治りかけと真新しい傷が混在しつづけているが。なんとなしに舌の先でその傷群(?)を確認する癖が最近できてしまった。

 昔、船乗りたちはビタミンC不足によって引き起こされる「壊血病」と呼ばれる症状に悩まされたらしい。昔、ビタミンCについて調べたときに驚愕の事実に目をひん剥いた経験がある。人間はビタミンCを食べ物によって摂取する必要があって、だからこそ僕が今飲んでいるような錠剤が販売されているわけである。動物にとってビタミンCというものは必要不可欠なものであるが、実はほとんどの動物がこれを体内で生成することが出来るらしい。今人類が生き残っているということは、つまり生活圏内でビタミンCを摂取できる環境で僕たちの祖先は生きながらえたということである。なんとも不思議な話ではなかろうか。

 今必死に錠剤を丸のみしている僕たちはなんと哀れなのだろう。そもそもの話、別に錠剤に頼る以前に、日々の食生活で体にとって必要な栄養素を摂取する取り組みを行わなければならない。「スーパーサイズ・ミー」が僕たちに示す真実は、健康的な食生活を人間は送らなければいけないという教訓である。ご飯は食べればおいしいけれど、若干の面倒臭さを感じてしまうことはないだろうか。似たようなこととして、お風呂に入る決断も若干のためらいもあるが、湯船に浸かれば生き返るような気持にさせてくれる。「健康的」という言葉に対して反骨精神を持つことの無意味さをしっかりと認識しなくてはいけない。

 

 いろいろとごちゃごちゃ書いたが、早く口内炎が治るのを願うばかりである。

竜巻の中で、一歩下がって前倣え

一歩下がって前倣え

 

 僕には目の前の出来事に対して、一歩後ろに下がって眺める癖がある。楽しいことも嫌なことも、一度客観的に見ることでその「値」が小さくなって心の負担が軽くなるからだ。これは特に「不快だ」という感情に対して有効と思われるかもしれないが、僕に関していえばそれだけが独立して行われることはなくて、楽しいことの値も小さくする必要がある。言い換えると使い分けることが出来ないのだ。

 一歩下がる、ということをより具体的に説明すると、時間軸をずらした自分がこの出来事に対してどう思うのかをその瞬間に考えるということだと思う。目の前で嫌なことがあっても、その熱量を数時間後の自分も保持し続けているかというと、どれだけの巨大な感情であろうとも時間の経過とともに逓減するはずである。何なら後になって「そんなこともあったな」と思えてしまうことの方が案外多かったりしないだろうか。

 ただ、どれだけ月日が流れようとも忘れられないこともある。どうやら僕たちの脳は嫌だと感じることはできるだけ忘れるような傾向があるらしいが、例えば非日常的で素敵な景色や出来事はいつまでも尾を引いて忘れられないことがある。僕も大分の旅館の露天風呂で見たあの夜景は、今でも一番素敵な景色として記憶に定着し続けていたりする。後になっても同じ熱量で語れる出来事というものは、僕たちにとって正真正銘の価値を有するものであり、そのような経験を今後の人生でも積み続けていきたいものである。

 

「竜巻のような」

 

 裏を返せば目の前で繰り広げられるほとんどの出来事は、この工程によって強制的に現実味を喪失させられるが、時として強烈な感情に支配されることがある。村上春樹の『スプートニクの恋人』冒頭にあった「広大な平原をまっすぐ突き進む竜巻のような激しい恋」というような理性を蹂躙する巨大感情を前に僕たちは無力である。気づいたときには遅くて、身体の周りを舞う木の葉や砂粒を受け入れるしかないときがある。

 僕も大学の頃、自分というものを見失いそうになるような異性関係の出来事があった。当時日記をつけていたので、今でもその混乱ぶりというものを確かめることが出来てなかなかに面白い。ここで紹介したいところだがあまりにも固有名詞が出てくるので概要はお伝え出来ない。以下、在りし日の日記の抜粋である。

 

 今までの日記を観返してみて思うのだけれど、やはり僕は彼女に対して友達以上の関係性を求めているのだろう。そもそも恋愛というものは一方的な感情の終結点(それが良い結果にしろ悪い結果にしろ)に向かっていることは間違いがない。しかし、それが双方の意見の一致が認められない限り、良い方向には進まないと僕のおじいちゃんは生前言っていた、のかもしれないし、言っていなかったのかもしれない。とにかく、そうやって彼女が今もこうして僕に対して好意を持っているということについて、とてもうれしかったと思ってしまうし、それで本当にいいのかという逡巡も同時に生まれた。

 

 間違いなく今の僕には書けない文章の一つだろう。これほどまでに混乱し、判断に悩む自分が過去に存在したという事実を日記から感じ取ることが出来る。ある程度の好奇心を満たすことは十分できるが、むしろ今ではそれくらいの価値しかない。おじいちゃんのくだりはよくわからないが、今でもこういった余計な一言を添える癖があるのは変わらない。サンドウィッチの付け合わせのパセリみたいな文章をね……。

 

巨大なクジラ

 

 物事を客観的に見たがる癖が出来たのは、今までの人生で経験した後悔のすべてを糧に自然発生的に傷つかない方法を捜したからだろう。多くの場合、感情というものは僕たちの両足を通り過ぎる一陣の風のように、時折吹いたかと思えばしばらくすれば止んだりするものである。そんな不安定なものを理由に何かを判断したり、動機づけにすることの脆さを重々理解する必要がある。真実は常に凪の中で見つけるものだし、あるいはいつまでも止まない強烈な風があるならばそれを頼りに帆を張って前に進むべきだ。

 だからといって感情が不要だと言いたいわけではない。ダイエットのために筋トレはするべきだが、その目標は0キログラムではない。時として瞬発的な感情に情緒を感じたり、後から思い出して自分の未熟さを痛感することも嫌いではない。そしてこの規律をすべての人が身に着けるべきだとも全く考えていない。ただ自分の中だけで発布され、施行されるだけの話だ。

 あまり触れたくはないが、どうしようもなく巨大なある種の負の感情に今も飲まれているのも事実である。どれだけ後ろに下がってもその全貌が見えない恐るべき悩みの種が僕にはあって、今でもその巨大な「クジラ」のようなものに頭を抱えている。干支が一周するころにはさすがに解決しているだろうが、それを待たずして自分で終止符を打とうかとちらっと考えてしまうこともある。そこには明文化することの恐ろしさがあって、これは後になってからでしか冷静に見ることが出来ないのかもしれない。時間が解決してくれる、なんていうけれど、それが特効薬だと信じるほかない。

 

between 理性 and 感情

 

 夜寝る前に、「今日はこんなことがあったなぁ」と僕はよく考えるが、物事が起きた瞬間にこの発想を持てるときは自分の体調がいいんだなとうっすら思える。このおかげで人に対して意味なくつっかかることもなくなったが、それと同時に楽しいこともどこか他人事のように思えてくる。そうすることでふと突然降りかかる出来事に多くの場合対処できるし、より理想的な選択肢も理解することが出来る。なにより無鉄砲に傷つくことは無くなって、見かけ上は穏やかな毎日を送ることが出来ている。

 しかし、僕の首元には例の死神の持つ「鎌」があって、その刃先が視界に入った途端寒気が止まらなくなることがある。何となく面白おかしく日常を過ごしていても、その事実が時々頭をよぎるから世話ない。あれほどルールがどうのと講釈を垂れながら、何よりの悩み事に対して有効な手立てをとることが出来ていない。

 やはり僕も感情に支配された人間という生き物でしかない。何が正しいとか、誰が間違っているとか、そういう話を結論ありきで話すのは思いのほか楽だ。自分を正当化するのは人間の得意技で、僕にもそれは備わっている。ただ、アンビバレントな心の内は、ダブルスタンダードを許容する節がある。だからこそどちらか一方に対して目を伏せるのであって、あたかもすべての物事がうまくいっているかのように見せることが出来る。

 僕はこの部分では正直にありたい。心の中は自分でも理解できないくらいに複雑で、昨日では正しいと思っていたことが、今日には間違っていると言ったり、そして明日には忘れていたりする例もある。

 

ただ、その混沌の中に、ある種の法則性を作り出す努力を続けている。

 

 

 

 

 

アスファルトを踏む音を聞かないということ

カナル【canal】①運河 ②管

 

 あまり名称を意識したことはないが、カナル型イヤホンと呼ばれるものを四六時中装着している。ちなみにこの「カナル(canal)」という単語は「①運河、②管」という二つの意味があるらしい。つまりは「Panama canal」は「パナマ運河」になり、「ear canal」は「外耳道」になる。カナル型イヤホンとは、その「外耳道」に直接装着するタイプのイヤホンを総称しているようだ。

 今まで各種ヘッドホンや耳掛けイヤホンも試してみたが、長時間使用すること、遮蔽性のレベルを考慮すると、圧倒的にカナル型が優位であった。加えてワイヤレスは総じて充電しなければならない煩わしさが付きまとった。ワイヤレスヘッドホンも一時かなり使っていたが、動線を縛られないメリットよりも充電切れのデメリットの方が僕にとってはとても大きく感じられた。

 SONYの5,000円くらいのイヤホンを高校生の頃からずっと愛用していて、壊れる度に同じものの色違いを買い続けている。おそらく今使っているもので十数代目になると思われる。音質を聞き分けられるほど高尚な耳をしていないのでどの程度のクオリティなのかは全く分からないが、別にシャリシャリした音もしないし、長時間(6時間くらい)使っても耳も痛くならないので何の不満もない。

 

いつだって僕の一番そばに

 

 出かけるときは必ず音楽を聴いている。サブスクに入っているので適当にランダムで曲が流れているので、時々思いがけない素敵な曲との出会いがあってそれがたまらなく嬉しい。これのおかげで数多くのアーティストを知ることが出来るからサブスクはやめられない。CDを買ってウォークマンにちまちま入れていた時代が懐かしい。ウォークマンF800というものを肌身離さず持っていたが、今調べてみたら生産終了となっているのだから消費者の需要の変化というものは著しい。僕のF800も押入れの奥に乱雑に突っ込まれている。

 家に帰ってからもイヤホンを外さずに、家のWi-Fiに切り替えてYouTubeを垂れ流している。夜食を食べるときも勉強しているときも、僕の両耳にはイヤホンが突っ込まれている。機種にもよるけれど僕のスマホのスピーカーはガシャガシャ音質なので、聞いていてあまり気持ちのいいものではない。歩いたり物を取ったりする自分の生活音で聞こえなくなることもあるので、基本的にイヤホンを装着するようにしている。褒められたものではないけれど湯船に浸かっているいるときもYouTubeを見ていて、そのときは流石に外しているが。

 寝るときもイヤホンを付けている、と人に話すと少し驚かれることがある。僕は寝つきがものすごく悪くて、睡眠不足でどうしようもなく眠いときを除いて、ほとんど毎日意識が落ちるまでに1時間はかかる。前まではASMR(心落ち着く音)を流していたが、今ではただただイヤホンを耳栓代わりにしていることが多い。ただ考え事をしすぎてあまりにも寝付けないときは、吹っ切れて音声コンテンツを目をつぶりながら聞いている。子供の頃からの癖で、寝る前に嫌なことを考えてしまって入眠に時間がかかってしまうのだ。最近になってそれが改善されたので、耳栓状態でも眠れる日が増えたのだろう。ただ、イヤホンはどうしたって必要なのは変わりない。

 

予備が予備らしくあるために

 

 カナル型イヤホンには先端に小さなゴムがついているが、これを片方どちらかでも無くしてしまったらおしまいである。多くの人にとっては「まあいいか」なんて思える話かもしれないけれど、それは僕にとっての致命傷になりえる。ポケットに手を突っ込んで耳に突っ込もうとしたとき、指にプラスチックの固さのみを感じたときの絶望たるやない。これが怖いからいつもリュックサックに予備のイヤーピース(ゴムの正式名称)を忍ばせていて、この不幸な出来事に常に備えている。

 ある日、そのイヤーピースの予備すらもなかったときがあって、僕は絶望した。カバンの中も必死に探したけれど、そのすべてを使い果たしてしまったようだ。久しぶりに聞く外界の音に困惑しながらその日は帰ったけれど、あやうく電車の座席にスマホを置き忘れそうになって自分の混乱ぶりを察した。もし地面に僕のイヤーピースが落ちていたら是非とも届けて頂きたい。すれ違う人の中で飛び切り不幸そうな顔をしている人がいれば、それが僕だとすぐにわかるだろう。

 歩道をてくてく歩いたり、電車でぼうっと突っ立ったり、そういうときに僕は目の前の光景とは関連性のない音を常に聞いている。だからこそ靴底がアスファルトを踏みしめる音や車内の人びとの会話を聞くことは珍しいことだったりする。もちろん人と会っているときはイヤホンを付けないが、一人で過ごすときは常に音楽とともにある。窓に流れる住宅街とサンボマスター、ベビーカーでニコニコしている赤ちゃんとUNISON SQUARE GARDENに、何の関連性もない。音声が切り離された景色は僕の意識の中でより重要度の低いものに成り下がっているのだろう。

 

僕のなかでは、現実が現実らしさを失っている。

 

「僕」は君から見れば「君」

おしゃれは足元から

 

 フリーターになって半年経過してから、一度就活をした。大学の頃の就活とは打って変わって同学年が横一列に取り組むものではなく、また新卒1年目で早速辞めた「すかたん」は僕しかいなかった。半年前に毎日袖を通していたスーツをもう一度引っ張り出してきて、その日は明日の企業との面接に備えて早めに寝ることにした。

 だが、午前中に予約を入れていたにもかかわらず、太陽が昇るまでに眠ることはできなかった。おおよそ1時間くらいの睡眠で目覚まし時計とスマホのアラームが同時になる。調子はすこぶる悪い。別に緊張して眠れなかったわけではない。遅番としてシフトに入っていたので、生活サイクル的にどうしても眠ることが出来なかったのだ。また昔から睡眠については数多くの問題を抱えていて、今まで一度も目が覚めることなく朝を迎えたことはない。頻尿ぎみなのもそれに拍車をかけていて、どうしたって質が下がる。

 眠たい目をこすりながらコーヒーを飲み干して、12月の気温に文句を言いながらスーツに着替える。久しぶりにネクタイを締めると、うれしい気持ちと悲しい気持ちをそれぞれ大さじ一杯ずつ味わうことが出来た。ギリギリに到着するのは性分ではないので、かなり余裕をもったタイムスケージュールを組んでいた。冷たい廊下を歩いて玄関にいき、革靴を捜す。観音開きの靴だなを開けて、上から下までくまなく見た。

 

革靴が無かった。

 

 どこをどう見たって僕の革靴はなかった。ただあるのは僕の薄汚れたコンバースだけで、あとは父と母のものであった。この悲しい事実を後ろにいた母に伝えるとと、彼女は呆れて父の靴を履いていけとアドバイスをくれた。靴を買うにはあまりにも早すぎたし、流石に僕のタイムスケージュールも「ショッピング」を差し込む時間的余裕は持ち合わせていなかった。

 致し方なし。おそらく昔に買って以来、履かれた形跡のほとんど無い革靴を箱から取り出し、祈るように足を入れた。しかし、それは僕の足にとっては一回り小さくて、小指たちが「タスケテー」と小さい悲鳴を上げるくらいには無理があった。だけど、コンバースを履いていくわけにはいかない。僕の目の前には2つの選択肢があった。このまま小さい革靴を履いていくか、スーツを脱ぎ捨ててベッドに横になるか。後者の選択肢も魅力的に思えてならなかったが、わざわざ僕のために時間を作ってくれている会社にあまりにも失礼である。僕は肩を落として、足を丸めて、玄関を出た。

 何故革靴が無かったかというと、それをバイト先で使っていたからだ。つまり昨夜のうちにロッカーから革靴を持って帰る必要があったのだけれど、それをすっかり忘れてしまっていた。スーツやワイシャツをあらかじめ用意するのは頭にあっても、靴まで考えられなかったような間抜けだった。こんな奴だから正社員をすぐさま辞めてフリーターになったんだろうね……。

 

傷口には、絆創膏を。

 

 小さい靴でトコトコとホームを歩きながら、僕の足が徐々に使い物にならなくなっていく実感があった。電車を乗り継ぎ、面接先の企業に着いたときには小指やかかとの皮膚がひりひり痛んだ。寒い日だったので体もカチコチに冷えた。冬にスーツを着るのが初めてだった僕は、スプリングコートしか羽織るものが無かった。風がやけに突き刺さる。

 ○○機器営業を主軸とする企業であったので、本社前で従業員が営業車に積み込みを行っている。スーツを着ている人は誰もいなくて、僕のスーツ姿がやけに目立った。スプリングコートを手に持って「〇時から面接させていただく△△ですが」と遠慮がちに声をかけると、頭にはてなマークを浮かべた従業員が建物に入っていく。しばらく誰かと話しているのをガラスの引き戸越しにしばらく見ていた。

 初めて降りた駅で、初めて目にする人たちの姿を見て、なぜかため息が出た。そういえば大学の時の就活もこんな気持ちになったっけな。僕はとても保守的な人間で、新しい環境というものにストレスを感じやすい。一度慣れてしまえばそれが心地よくなって逆に抜け出せなくなるが、そうなるまでには数多の問題に対峙しなければならない。こんな僕を「甘ちゃん」だと馬鹿にする人もいるだろうけど、自分自身でそれは理解しているつもりである。何か反抗したり言い訳する隙なんてものはそこにない。なんてったって僕は営業職から逃げた人間なんだから。

 

 面接はほとんど何もうまくいかずに終わった。原因なんてものはこの際どうでもよくて、僕の経歴について失笑(笑いも出ないくらい呆れる)されながら時間は経過した。最後の方は何故か説教が始まって、それを苦笑いしながら聞いていた。出されたお茶は最後まで手を付けなかった。

 外に出ると陽光が気持ち良くてたまらなかった。ただ足はひりひりと痛み、今すぐ革靴を捨てて靴下で帰りたかったが、ABCマートに寄り道をして履き替えることにした。ペンギンの赤ちゃんよりもトロトロと歩きながら、おそらくもう二度と見ることのない景色を目に焼き付ける。結果から言うとこの企業からは秒速でNOを突きつけられて、その通知の速さに思わず失笑(噴き出して笑う)してしまうほどだった。

 横断歩道で信号待ちをしているときに、車が侵入できないように突き刺さっているポールに腰かけて革靴を脱いだ。柔い皮膚はいとも簡単に破られ血がにじんでいる。このままABCマートまで歩けるかどうか悩んだくらいだった。面接で心をえぐられてもいたし、歩き出す気力もなかった。

 

「あの」

 

 こちらに向かって女性が話しかけてくる。最初僕に言っているものだと思わなくて下を向いていたが、おずおずと顔を上げると目が合ったのでどうやら僕で合っていたようだった。「私も靴擦れになってしんどい思いをしたことがあって、いつも絆創膏を持つようにしているんです。よかったらこれどうぞ」と大きめの絆創膏を数枚渡してきた。突然のことだったので、感謝の言葉を自分がしっかりと口にできていたか思い出せないが、慌てながら頭をペコペコ下げたのは確かだ。女性はそのまま立ち去って、その小さくなる背中をぼんやり見ていた。

 なぜか泣きそうになった。傷口に絆創膏を張りながら、なんで自分の両目が潤んでいるのか分からなかった。別に靴擦れが泣くほど痛かったわけではない。確かなことは僕はフリーターになって、何かが大きく歪んでしまったということである。ユリゲラーが僕の心を見て絶句したから間違いないと思う。ふいに前の前に現れた「優しさ」に戸惑い、はっとさせられた。

 その絆創膏のゴミは今でも捨てられないでいる。中身のない紙きれだけれど、それを見るとこの出来事が思い返されて手許に置いておきたくなった。もちろんだけどその女性の名前も年齢も知らないし、今となっては顔も思い出せない。ただ概念的にその優しさだけが記憶に定着している。

 

「僕」は君から見れば「君」

 

 電車やバスなどの公共の場所でいろんな人と同じ空間を共有することはあるけれど、彼ら彼女らがどんな人生を送ってきて、どんな気持ちでいるのかを知ることはできない。もちろん知ろうと思うことの方が少ないけれど、事実としてみんながそれぞれ異なった人生を送っている。コペル君みたいに聡くない僕でも理解できる話だ。別にそれぞれの価値を推し量って、A君よりもB君の方がより「良い」なんてことを判断する必要はどこにもない。A君やB君が「いる」と意識することに意味がある。

 都会に行くと、道路もご飯屋さんも映画館も人でひしめいている。日本人は1億2千万人いるらしいが、本当にそんだけいるのか不思議に思ったことはないだろうか。単純計算で、今までの人生で話したことのある人の数を多く見積もって千人だとすると、その12万倍の人間が日本中にひしめいているわけである。その存在の多さの前に一人ひとりの存在感が薄まりそうだが、彼らも自分と同じように喜んだり悲しんだりする人間である。

 だからといって自分の存在の矮小さを嘆く必要はない。比較検討というものは必要なくて、時々周りを見渡して、この事実をただ単に「確認」することに意味があると考えている。上腕二頭筋を鍛える目的でダンベルを持ち上げる、みたいな直接的なプロセスは別にここにはない。「なるほどなぁ」としばらく眺めてから日常生活に戻ることで、無意識下で何かが少しずつ変わっていく気がする。

甲子園は目指せない

10,000,000,000円

 

 世の中には数多くのスポーツがあって、下層の僕には到底手の届かないような金額を報酬として受け取っている事実がある。羨んだり手を伸ばそうとするにはあまりにもスケールが違っていて、夜空の月のようにまるでそこにあるのが嘘かのように感じられる。だけど、それは確かに存在していて、テレビやスマホでいつでも見ることが出来る。

 一般的に生涯年収は数億円程度らしいが、その数十倍をたった1年で稼ぐ一部のアスリートがいる。口座に並んだゼロの数を数えるならば、指を8つ折ったあたりで失禁して、両手の指がすべて閉じられた頃には意識を失ってしまうだろう。僕にとってその額は、お金がお金らしさを保てる範囲を大きく逸脱している。コンビニで内心高いなぁなんて思いながら300円のスイーツを買う僕とそんな彼らとが、間違いなく同じ「人類」だという事実を受け止めきれない。

 ともかくそれほどの金額が集中しているという事実は、スポーツが人々の心をつかんでやまないということの証左でもある。それだけの金額をスポンサードしても、それ以上のリターンを得られると企業が判断して行動しているわけだから、恐ろしい業界である。野球、サッカー、テニス、バスケ、バレー等々、多種多様なスポーツが多くの人に「観戦」であったり、はたまた実際に娯楽として普及している。部活動として中学・高校・大学で取り組まれた方々も多いところだろう。

 

「次は文化部です」

 

 中高6年間、余すところなく文化部だった僕は、時折自分のそういった出自をひた隠しにする部分がある。わざわざスポーツの話をするには知識が付け焼刃だし、実際にやったことがあるのは体育の授業でカリキュラムとして行われたものに限られる。甲子園をテレビで見るのは割と好きだったけれど、そこに部活動特有の青春や儚さなんてものを感じたことはない。ただただ脱帽するのみで、同年代の彼らが炎天下の中で一心に勝利を目指す姿は、あまりにも自分とは対照的に映った。

 関西に住んでいるので時折熱心な阪神ファンが知り合いにいたりもしたが、どうしても彼らと僕の間には大きな溝を感じずにはいられなかった。別にスポーツの話をされるのが嫌だったわけではなくて、むしろ彼らが清々しいまでにその熱意をぶつけてきたりするとうらやましく思ったりする。野球に限らず、学生時代の部活動の話を嫌々する人は珍しい方で、むしろ進んで楽しそうに当時の思い出話をする人が多い傾向にある。スポーツは数多の話題のなかでもとりわけ扱いやすい分野ではなかろうか。

 だからこそ、「君は何部だったの?」なんて聞かれると少したじろいでしまう。先ほどの「部活動の話を嫌々する人」のなかには、実は僕自身が含まれている。文化部としての活動なんてものは誰も聞きたがらないし、話が膨らむなんてことはまずない。自ら適当にさっと流して、別の話題にそそくさ逃げるのが最善手である。AIも間違いなくそういう手を指示してくるはずだ。

 

 高校生の頃、僕は写真部に入っていた。元々他の部活動(もちろん文化部)に入っていたが、僕が辞めるタイミングで知り合いの2人の帰宅部と一緒に写真部に移った。顧問はいたが元々の部員数はゼロで、活動も週に2回しかなかった。時折顧問と相談して休みの日にカメラをもって遠出したこともあった。部活動と呼ぶにはボリュームが物足りないが、それで僕たちは満足していたし、何より楽しむことが出来た。

 何某かの賞に応募して佳作に入選したとき、顧問がそれをいたく喜んで、全校集会でそれを発表しようと言い出した。別にそんな目立つような真似はしたくなかったけれど、今まで野球部や陸上部などの早々たる運動部の活躍が取り上げられる全校集会に自分が割り込むことが出来たんだと、少しだけうれしくもあった。少ない部員も若干の盛り上がりを見せ、その当日まで心が躍った。

 全校集会当日、僕たちの前に運動部の華々しい成果が読み上げられた時は、舞台上で逃げ出したい気持ちでいっぱいになった。壇上から見る景色は僕を震え上がらせるのには十分すぎるものだった。「次は文化部です」と淡々と写真部の成果が読み上げられた。生徒たちはざわざわしていて、中には馬鹿にしているかのような笑い声が聞こえてきた。

 

早くこの時間が終わればいいのにと、心の中でそう呟いた。

 

甲子園は目指せない

 

 この体験がコンプレックスになっているかは分からないけれど、無条件に自分の部活動の経歴を蔑んでいる部分はある。そもそも部活動というものに真剣に取り組んでいなかったのが悪いとも考えられる。僕の青春は全力とは程遠くて、放課後に夜が更けるまで友達とゲームをすることを面白がってた点からもそのことが伺える。

 もちろん文化部の中にも真剣に部活動に取り組んでいる人がいることも知っている。そんな彼らのことを悪く言ったりしたいわけではなくて、僕のような気持になっている人が抱えている「病」の症状について、文化部という側面から切り取ってみただけだ。当時の僕は全力で何かに向き合うことを疎んで、むしろ斜め方向に枝葉を伸ばすことで奇をてらった気になっていたのかもしれない。この真正面からぶつからず、さっと肩を斜めにずらしてその衝撃をいなす物事の取り組み方は反省すべき部分だと思う。

 スポーツに真剣に向き合い、汗を流すその姿は美しく見える。僕には一生触れることのできないもので、それは学生時代から流し目で様子を伺っていたものでもある。残念ながら今から甲子園は目指せないし、トライアウトに合格することもできない。直視するにはあまりにも眩しくて、どこか別世界のように感じられる。それは逃げ続けた青春の欠陥の一つであろう。