アスファルトを踏む音を聞かないということ

カナル【canal】①運河 ②管

 

 あまり名称を意識したことはないが、カナル型イヤホンと呼ばれるものを四六時中装着している。ちなみにこの「カナル(canal)」という単語は「①運河、②管」という二つの意味があるらしい。つまりは「Panama canal」は「パナマ運河」になり、「ear canal」は「外耳道」になる。カナル型イヤホンとは、その「外耳道」に直接装着するタイプのイヤホンを総称しているようだ。

 今まで各種ヘッドホンや耳掛けイヤホンも試してみたが、長時間使用すること、遮蔽性のレベルを考慮すると、圧倒的にカナル型が優位であった。加えてワイヤレスは総じて充電しなければならない煩わしさが付きまとった。ワイヤレスヘッドホンも一時かなり使っていたが、動線を縛られないメリットよりも充電切れのデメリットの方が僕にとってはとても大きく感じられた。

 SONYの5,000円くらいのイヤホンを高校生の頃からずっと愛用していて、壊れる度に同じものの色違いを買い続けている。おそらく今使っているもので十数代目になると思われる。音質を聞き分けられるほど高尚な耳をしていないのでどの程度のクオリティなのかは全く分からないが、別にシャリシャリした音もしないし、長時間(6時間くらい)使っても耳も痛くならないので何の不満もない。

 

いつだって僕の一番そばに

 

 出かけるときは必ず音楽を聴いている。サブスクに入っているので適当にランダムで曲が流れているので、時々思いがけない素敵な曲との出会いがあってそれがたまらなく嬉しい。これのおかげで数多くのアーティストを知ることが出来るからサブスクはやめられない。CDを買ってウォークマンにちまちま入れていた時代が懐かしい。ウォークマンF800というものを肌身離さず持っていたが、今調べてみたら生産終了となっているのだから消費者の需要の変化というものは著しい。僕のF800も押入れの奥に乱雑に突っ込まれている。

 家に帰ってからもイヤホンを外さずに、家のWi-Fiに切り替えてYouTubeを垂れ流している。夜食を食べるときも勉強しているときも、僕の両耳にはイヤホンが突っ込まれている。機種にもよるけれど僕のスマホのスピーカーはガシャガシャ音質なので、聞いていてあまり気持ちのいいものではない。歩いたり物を取ったりする自分の生活音で聞こえなくなることもあるので、基本的にイヤホンを装着するようにしている。褒められたものではないけれど湯船に浸かっているいるときもYouTubeを見ていて、そのときは流石に外しているが。

 寝るときもイヤホンを付けている、と人に話すと少し驚かれることがある。僕は寝つきがものすごく悪くて、睡眠不足でどうしようもなく眠いときを除いて、ほとんど毎日意識が落ちるまでに1時間はかかる。前まではASMR(心落ち着く音)を流していたが、今ではただただイヤホンを耳栓代わりにしていることが多い。ただ考え事をしすぎてあまりにも寝付けないときは、吹っ切れて音声コンテンツを目をつぶりながら聞いている。子供の頃からの癖で、寝る前に嫌なことを考えてしまって入眠に時間がかかってしまうのだ。最近になってそれが改善されたので、耳栓状態でも眠れる日が増えたのだろう。ただ、イヤホンはどうしたって必要なのは変わりない。

 

予備が予備らしくあるために

 

 カナル型イヤホンには先端に小さなゴムがついているが、これを片方どちらかでも無くしてしまったらおしまいである。多くの人にとっては「まあいいか」なんて思える話かもしれないけれど、それは僕にとっての致命傷になりえる。ポケットに手を突っ込んで耳に突っ込もうとしたとき、指にプラスチックの固さのみを感じたときの絶望たるやない。これが怖いからいつもリュックサックに予備のイヤーピース(ゴムの正式名称)を忍ばせていて、この不幸な出来事に常に備えている。

 ある日、そのイヤーピースの予備すらもなかったときがあって、僕は絶望した。カバンの中も必死に探したけれど、そのすべてを使い果たしてしまったようだ。久しぶりに聞く外界の音に困惑しながらその日は帰ったけれど、あやうく電車の座席にスマホを置き忘れそうになって自分の混乱ぶりを察した。もし地面に僕のイヤーピースが落ちていたら是非とも届けて頂きたい。すれ違う人の中で飛び切り不幸そうな顔をしている人がいれば、それが僕だとすぐにわかるだろう。

 歩道をてくてく歩いたり、電車でぼうっと突っ立ったり、そういうときに僕は目の前の光景とは関連性のない音を常に聞いている。だからこそ靴底がアスファルトを踏みしめる音や車内の人びとの会話を聞くことは珍しいことだったりする。もちろん人と会っているときはイヤホンを付けないが、一人で過ごすときは常に音楽とともにある。窓に流れる住宅街とサンボマスター、ベビーカーでニコニコしている赤ちゃんとUNISON SQUARE GARDENに、何の関連性もない。音声が切り離された景色は僕の意識の中でより重要度の低いものに成り下がっているのだろう。

 

僕のなかでは、現実が現実らしさを失っている。