甲子園は目指せない

10,000,000,000円

 

 世の中には数多くのスポーツがあって、下層の僕には到底手の届かないような金額を報酬として受け取っている事実がある。羨んだり手を伸ばそうとするにはあまりにもスケールが違っていて、夜空の月のようにまるでそこにあるのが嘘かのように感じられる。だけど、それは確かに存在していて、テレビやスマホでいつでも見ることが出来る。

 一般的に生涯年収は数億円程度らしいが、その数十倍をたった1年で稼ぐ一部のアスリートがいる。口座に並んだゼロの数を数えるならば、指を8つ折ったあたりで失禁して、両手の指がすべて閉じられた頃には意識を失ってしまうだろう。僕にとってその額は、お金がお金らしさを保てる範囲を大きく逸脱している。コンビニで内心高いなぁなんて思いながら300円のスイーツを買う僕とそんな彼らとが、間違いなく同じ「人類」だという事実を受け止めきれない。

 ともかくそれほどの金額が集中しているという事実は、スポーツが人々の心をつかんでやまないということの証左でもある。それだけの金額をスポンサードしても、それ以上のリターンを得られると企業が判断して行動しているわけだから、恐ろしい業界である。野球、サッカー、テニス、バスケ、バレー等々、多種多様なスポーツが多くの人に「観戦」であったり、はたまた実際に娯楽として普及している。部活動として中学・高校・大学で取り組まれた方々も多いところだろう。

 

「次は文化部です」

 

 中高6年間、余すところなく文化部だった僕は、時折自分のそういった出自をひた隠しにする部分がある。わざわざスポーツの話をするには知識が付け焼刃だし、実際にやったことがあるのは体育の授業でカリキュラムとして行われたものに限られる。甲子園をテレビで見るのは割と好きだったけれど、そこに部活動特有の青春や儚さなんてものを感じたことはない。ただただ脱帽するのみで、同年代の彼らが炎天下の中で一心に勝利を目指す姿は、あまりにも自分とは対照的に映った。

 関西に住んでいるので時折熱心な阪神ファンが知り合いにいたりもしたが、どうしても彼らと僕の間には大きな溝を感じずにはいられなかった。別にスポーツの話をされるのが嫌だったわけではなくて、むしろ彼らが清々しいまでにその熱意をぶつけてきたりするとうらやましく思ったりする。野球に限らず、学生時代の部活動の話を嫌々する人は珍しい方で、むしろ進んで楽しそうに当時の思い出話をする人が多い傾向にある。スポーツは数多の話題のなかでもとりわけ扱いやすい分野ではなかろうか。

 だからこそ、「君は何部だったの?」なんて聞かれると少したじろいでしまう。先ほどの「部活動の話を嫌々する人」のなかには、実は僕自身が含まれている。文化部としての活動なんてものは誰も聞きたがらないし、話が膨らむなんてことはまずない。自ら適当にさっと流して、別の話題にそそくさ逃げるのが最善手である。AIも間違いなくそういう手を指示してくるはずだ。

 

 高校生の頃、僕は写真部に入っていた。元々他の部活動(もちろん文化部)に入っていたが、僕が辞めるタイミングで知り合いの2人の帰宅部と一緒に写真部に移った。顧問はいたが元々の部員数はゼロで、活動も週に2回しかなかった。時折顧問と相談して休みの日にカメラをもって遠出したこともあった。部活動と呼ぶにはボリュームが物足りないが、それで僕たちは満足していたし、何より楽しむことが出来た。

 何某かの賞に応募して佳作に入選したとき、顧問がそれをいたく喜んで、全校集会でそれを発表しようと言い出した。別にそんな目立つような真似はしたくなかったけれど、今まで野球部や陸上部などの早々たる運動部の活躍が取り上げられる全校集会に自分が割り込むことが出来たんだと、少しだけうれしくもあった。少ない部員も若干の盛り上がりを見せ、その当日まで心が躍った。

 全校集会当日、僕たちの前に運動部の華々しい成果が読み上げられた時は、舞台上で逃げ出したい気持ちでいっぱいになった。壇上から見る景色は僕を震え上がらせるのには十分すぎるものだった。「次は文化部です」と淡々と写真部の成果が読み上げられた。生徒たちはざわざわしていて、中には馬鹿にしているかのような笑い声が聞こえてきた。

 

早くこの時間が終わればいいのにと、心の中でそう呟いた。

 

甲子園は目指せない

 

 この体験がコンプレックスになっているかは分からないけれど、無条件に自分の部活動の経歴を蔑んでいる部分はある。そもそも部活動というものに真剣に取り組んでいなかったのが悪いとも考えられる。僕の青春は全力とは程遠くて、放課後に夜が更けるまで友達とゲームをすることを面白がってた点からもそのことが伺える。

 もちろん文化部の中にも真剣に部活動に取り組んでいる人がいることも知っている。そんな彼らのことを悪く言ったりしたいわけではなくて、僕のような気持になっている人が抱えている「病」の症状について、文化部という側面から切り取ってみただけだ。当時の僕は全力で何かに向き合うことを疎んで、むしろ斜め方向に枝葉を伸ばすことで奇をてらった気になっていたのかもしれない。この真正面からぶつからず、さっと肩を斜めにずらしてその衝撃をいなす物事の取り組み方は反省すべき部分だと思う。

 スポーツに真剣に向き合い、汗を流すその姿は美しく見える。僕には一生触れることのできないもので、それは学生時代から流し目で様子を伺っていたものでもある。残念ながら今から甲子園は目指せないし、トライアウトに合格することもできない。直視するにはあまりにも眩しくて、どこか別世界のように感じられる。それは逃げ続けた青春の欠陥の一つであろう。