竜巻の中で、一歩下がって前倣え
一歩下がって前倣え
僕には目の前の出来事に対して、一歩後ろに下がって眺める癖がある。楽しいことも嫌なことも、一度客観的に見ることでその「値」が小さくなって心の負担が軽くなるからだ。これは特に「不快だ」という感情に対して有効と思われるかもしれないが、僕に関していえばそれだけが独立して行われることはなくて、楽しいことの値も小さくする必要がある。言い換えると使い分けることが出来ないのだ。
一歩下がる、ということをより具体的に説明すると、時間軸をずらした自分がこの出来事に対してどう思うのかをその瞬間に考えるということだと思う。目の前で嫌なことがあっても、その熱量を数時間後の自分も保持し続けているかというと、どれだけの巨大な感情であろうとも時間の経過とともに逓減するはずである。何なら後になって「そんなこともあったな」と思えてしまうことの方が案外多かったりしないだろうか。
ただ、どれだけ月日が流れようとも忘れられないこともある。どうやら僕たちの脳は嫌だと感じることはできるだけ忘れるような傾向があるらしいが、例えば非日常的で素敵な景色や出来事はいつまでも尾を引いて忘れられないことがある。僕も大分の旅館の露天風呂で見たあの夜景は、今でも一番素敵な景色として記憶に定着し続けていたりする。後になっても同じ熱量で語れる出来事というものは、僕たちにとって正真正銘の価値を有するものであり、そのような経験を今後の人生でも積み続けていきたいものである。
「竜巻のような」
裏を返せば目の前で繰り広げられるほとんどの出来事は、この工程によって強制的に現実味を喪失させられるが、時として強烈な感情に支配されることがある。村上春樹の『スプートニクの恋人』冒頭にあった「広大な平原をまっすぐ突き進む竜巻のような激しい恋」というような理性を蹂躙する巨大感情を前に僕たちは無力である。気づいたときには遅くて、身体の周りを舞う木の葉や砂粒を受け入れるしかないときがある。
僕も大学の頃、自分というものを見失いそうになるような異性関係の出来事があった。当時日記をつけていたので、今でもその混乱ぶりというものを確かめることが出来てなかなかに面白い。ここで紹介したいところだがあまりにも固有名詞が出てくるので概要はお伝え出来ない。以下、在りし日の日記の抜粋である。
今までの日記を観返してみて思うのだけれど、やはり僕は彼女に対して友達以上の関係性を求めているのだろう。そもそも恋愛というものは一方的な感情の終結点(それが良い結果にしろ悪い結果にしろ)に向かっていることは間違いがない。しかし、それが双方の意見の一致が認められない限り、良い方向には進まないと僕のおじいちゃんは生前言っていた、のかもしれないし、言っていなかったのかもしれない。とにかく、そうやって彼女が今もこうして僕に対して好意を持っているということについて、とてもうれしかったと思ってしまうし、それで本当にいいのかという逡巡も同時に生まれた。
間違いなく今の僕には書けない文章の一つだろう。これほどまでに混乱し、判断に悩む自分が過去に存在したという事実を日記から感じ取ることが出来る。ある程度の好奇心を満たすことは十分できるが、むしろ今ではそれくらいの価値しかない。おじいちゃんのくだりはよくわからないが、今でもこういった余計な一言を添える癖があるのは変わらない。サンドウィッチの付け合わせのパセリみたいな文章をね……。
巨大なクジラ
物事を客観的に見たがる癖が出来たのは、今までの人生で経験した後悔のすべてを糧に自然発生的に傷つかない方法を捜したからだろう。多くの場合、感情というものは僕たちの両足を通り過ぎる一陣の風のように、時折吹いたかと思えばしばらくすれば止んだりするものである。そんな不安定なものを理由に何かを判断したり、動機づけにすることの脆さを重々理解する必要がある。真実は常に凪の中で見つけるものだし、あるいはいつまでも止まない強烈な風があるならばそれを頼りに帆を張って前に進むべきだ。
だからといって感情が不要だと言いたいわけではない。ダイエットのために筋トレはするべきだが、その目標は0キログラムではない。時として瞬発的な感情に情緒を感じたり、後から思い出して自分の未熟さを痛感することも嫌いではない。そしてこの規律をすべての人が身に着けるべきだとも全く考えていない。ただ自分の中だけで発布され、施行されるだけの話だ。
あまり触れたくはないが、どうしようもなく巨大なある種の負の感情に今も飲まれているのも事実である。どれだけ後ろに下がってもその全貌が見えない恐るべき悩みの種が僕にはあって、今でもその巨大な「クジラ」のようなものに頭を抱えている。干支が一周するころにはさすがに解決しているだろうが、それを待たずして自分で終止符を打とうかとちらっと考えてしまうこともある。そこには明文化することの恐ろしさがあって、これは後になってからでしか冷静に見ることが出来ないのかもしれない。時間が解決してくれる、なんていうけれど、それが特効薬だと信じるほかない。
between 理性 and 感情
夜寝る前に、「今日はこんなことがあったなぁ」と僕はよく考えるが、物事が起きた瞬間にこの発想を持てるときは自分の体調がいいんだなとうっすら思える。このおかげで人に対して意味なくつっかかることもなくなったが、それと同時に楽しいこともどこか他人事のように思えてくる。そうすることでふと突然降りかかる出来事に多くの場合対処できるし、より理想的な選択肢も理解することが出来る。なにより無鉄砲に傷つくことは無くなって、見かけ上は穏やかな毎日を送ることが出来ている。
しかし、僕の首元には例の死神の持つ「鎌」があって、その刃先が視界に入った途端寒気が止まらなくなることがある。何となく面白おかしく日常を過ごしていても、その事実が時々頭をよぎるから世話ない。あれほどルールがどうのと講釈を垂れながら、何よりの悩み事に対して有効な手立てをとることが出来ていない。
やはり僕も感情に支配された人間という生き物でしかない。何が正しいとか、誰が間違っているとか、そういう話を結論ありきで話すのは思いのほか楽だ。自分を正当化するのは人間の得意技で、僕にもそれは備わっている。ただ、アンビバレントな心の内は、ダブルスタンダードを許容する節がある。だからこそどちらか一方に対して目を伏せるのであって、あたかもすべての物事がうまくいっているかのように見せることが出来る。
僕はこの部分では正直にありたい。心の中は自分でも理解できないくらいに複雑で、昨日では正しいと思っていたことが、今日には間違っていると言ったり、そして明日には忘れていたりする例もある。
ただ、その混沌の中に、ある種の法則性を作り出す努力を続けている。