劣等感を片手に、「人並み」を求める話

同級生の就職先は勝ち組

 

 大学4年生の秋頃、高校の友達と集まる機会があった。確かコートを着ていたので、冬もかなり近かったと思う。正直あまり行く気にはなれなかったが、多分今日を逃すと今後一生会うことはないんだろうなと思って、意を決して参加した。

 就職先は誰も知らない業界の名前も聞かない企業だったので、みんなに言うのが憚られた。同じように高校を卒業した、同じ100メートル走をよーいどんで走った仲間たちと、これほどの差が開いていたのかという事実を知ることの恐怖は計り知れなかった。とりあえずコンビニで煙草を吸って、心を落ち着かせてから、集合時間ピッタリに目的地についた。

 話はやっぱり、それぞれがどこで働くかの話になった。僕も名前を知っているような大手に就職して、しばらくは東京で働かなくちゃいけないとか、既にちょっと前に起業して、色々大変だけど頑張っているだとか、そういった話をニコニコしながら聞くほかなかった。「○○は?」と聞かれたとき、ぎくりと背筋が凍った。僕は……。

 あーそうなんだ、みたいな相槌で流されて、僕の話で盛り上がる気なんてみんなになかった。別に彼らを憎んではいない。むしろ、僕に気を使って、深堀りすることに躊躇したんだと思う。多分、僕は笑ってなかったから。

 

 劣等感。

 

 人と比べて見劣りするんだと、そう自分を評価する状態。世の中には一般的な理想像があって、だから「大手」なんて言葉があるわけだし、勝ち組・負け組みたいな判断を下す審判を心の中に飼っている。僕は自分のやりたいことを見つけられず、色々と悶々とした日々を過ごしていたが、そんな僕でもやっぱり理想像に縛られていた。

 より詳細に言えば、自分の姿を見たとき「ああ、こいつは負け組だ」と思ってるんだろうな、なんて被害妄想をしている状態だろう。別に思っているとか思ってないとかは関係なくて、被害妄想は複雑な操作なんて必要なくオートマ車のようにアクセルを踏めばとっとと加速する。ちなみに僕は「AT限」で免許を取ったが、それについては劣等感は持っていない。はい。

 僕は、このときは「この劣等感はまやかしだ」と自分に言い聞かせることにした。隣の芝は青い、隣の花は赤い、同級生の就職先は勝ち組。常に人は自分以外のものをうらやましがったりする、そんな心の作用によって事実を事実以上に凄みをもって解釈することがある。例えば同い年の有名人と自分を比べたりして、これほどに違うものかとわざわざ見に行って嘆く必要はないのだ。

 

タイムマシンがあったなら

 

 就職先を半年で辞めてフリーターになることを、学生時代の自分が知ったら鼻で笑うだろう。アニメでよくあるけれど、「やっぱりあれは夢だったんだ!」と飛び起きて、それが事実なんだと確認してゲロを吐きそうになることが今でもある。考えないようにしても、深層心理で自分自身を酷評して蔑んでいるんだろう。ただ、この人生を選択した以上、この枠内で向上心を持って物事に取り組んでいかなくちゃいけない。

 タバコを吸っている時間は嫌なことを考える癖があるから、どうしてもスマホを持たざるを得ない。別に全く見る必要もない芸能人のゴシップやらスポーツ情報のネットニュースを、タバコを吸いながら読む癖がついたのはいつからだろうか。寝る前はとにかくひどくて、意図的に楽しい思い出や最近読んでいる本や見終わった映画の世界観に意識をもっていかないと嫌なことばかり考えてしまう。

 何が悪かったのか。例えば家庭環境が複雑でどうしてもその道を選ばなくちゃいけない人もいる。不遇な環境で最初から選択肢を与えられていない人がいることを僕は知っている。しかし僕の場合は、ただ単に自分自身の行動によってこうなったに他ならない。

 

 自業自得

 

 母に少し愚痴をこぼしたら「就活をちゃんとやっていたら今悩んではなかっただろうね」なんて言われて、本当に感情がグチャグチャになった。事実は時として人の心をえぐってどうしようもない傷を残すことがある。その日は涙が止まらなくなって、どうしようもないから夜道を数時間散歩して気持ちが落ち着くころに家に戻った。

 何が原因かを考えることはとても大切なことで、人は間違いに陥っても反省して次に生かすことができる生き物である。ただ、その事実があまりにも冷酷で直視するにはある程度の勇気を必要とする場合、その作業は困難を要する。人によっては僕とは対照的に淡々と事実を受け止めて、楽観的に上昇志向に持っていける場合がある。

 何がその作業の邪魔をするのかというと、大きな劣等感がそうさせている。なんて馬鹿な真似をしたんだと分かっていながらも、その劣等感と膝を交えて反省できる人にはなれなかった。多分だけど、僕はプライドが高いんだと思う。もうそれは起こったことなのに、「まさか自分に限って……」みたいなアホの発想を事後にですら出来ちゃうタワケだ。

 

エネルギー:劣等感

 

 誰しも夢があると思う。お金持ちになりたいとか、幸せな家庭を築きたいとか、もちろん全員が全員おしなべてこの理想を掲げる必要なんて全くないんだけれど、ポピュラーなものであればこれらが挙げられる。他にはシンガーソングライターとして有名になりたいとか、何かしらの世界大会で優勝したいとか、人々の欲望は至る所に渦巻いている。

 学生時代から夢の無い僕は、フリーターになってようやく一つの夢を手に入れることが出来た。普通の生活を普通に過ごしたい。たったこれだけのことを今の僕は出来ていない。別にフリーターで満足している人のことを馬鹿にしているわけではなくて、彼らは彼らなりの夢があって、それが叶っているのであれば別に問題はない。ただ、僕の周りのフリーターが現状に満足していない場合が多いのも事実だ。正社員になれないとか、就活がうまくいっていないとか、そういった悩みをぽろっと聞くと僕も同じように悲しい顔をしてしまう。

 正社員として毎日残業する彼女の話は、僕に無数の切り傷を作る。大変だね。つらいね。そういった言葉は、僕が持つ「真っすぐ」の言葉ではない。一度つばを飲み込んで、その上で優しさをわざわざ手で掬って差し出す必要がある。僕はフリーターで、彼女は正社員なんだ、といちいち思うこんな自分は相当ひねくれちゃったんだろうな。

 

 日々の暮らしの中で、目をつぶっている事実の中に劣等感を感じ取る要素がある。夜、バイト終わりの電車で見かけるスーツ姿の彼らや、今でも時折会う同級生の話の中にそれがある。僕は時々、その事実を直視して、気持ちのほとんどすべてを劣等感で満たす作業をしている。恥ずかしい、悔しい、悲しい。そんな感情をもって自分に負荷を与えて、それを向上心に変えるためである。

 モチベーションなんてものを当てにして何かをするのはあまりにも危険すぎる。今日はやる気がわかないな、なんて投げやりになって物事に取り組まないでいることはあまりにも簡単である。楽しい方へ、楽な方へ、人はそちらへ流される性質を持つ。これをやらずには眠れない、くらいの習慣になるまでやるべきことを昇華させれば、それは思いのほか楽だったりする。

 一方で、時としてモチベーションが強力な推進力になることも知っている。それが僕の場合には現状への不満足感、つまり劣等感だった。劣等感は焦燥感に、焦燥感はモチベーションになり、僕が今取り組んでいることにもっと真剣に向き合わせてくれる。

 

 人並み以下の僕が、人並みと言えるまで這い上がれるのは、いつの日になるのだろうか。