みんなが良いと言うものを、僕も良いと思うこと

祭りに行けなかった僕たち

 

 小学生の頃、家からほど近い神社で祭りがあるというものだから、クラスメイト達はこぞって大集合していた。休み時間に「明日は何時に集まる?」なんて会話が聞こえてきて、実に楽しそうだったのがうらめしかった。僕は中学受験のために放課後は塾に行く必要があった。親にやんわり「祭りがあるんだって……」と伝えたけれど「塾はどうするの?」とサッと却下された。

 神社自体はそもそもそんなに大きくない。別に名の知れた場所でもなかったし、境内の敷地面積もたかが知れていた。しかし、大切なのは祭りの良し悪しではなくて、自分だけ楽しみを共有できない「仲間外れ感」にやきもきしていたのだ。

 塾で机に向かっているときも「ああ、今頃はみんな楽んでんだろうな」なんて考えたりして、少し不貞腐れてもいた。一方で中学受験は親から強制されたものではないというのも、僕の心を複雑にさせた。友達に「○○君は来るの?」と聞かれて「ああ、塾なんだよね」と答えるときに、悲しみと同じ量の愉悦に浸っていたのは事実だ。クラスで中学受験をするのが数人しかいなくて、その馬鹿げた愉悦に時々感情をかき乱された。

 

 大した祭りではなかったけれど、僕はそのことをずっと心残りに思っていて、何があっても絶対に行くんだという決心をした。親にも熱意を伝えて、来年はなんとか神社に行くことが出来た。

 お金を少し貰って、てくてく神社に向かう。おのずと早歩きになって、神社が見える頃には小走りになっていた。そこにはいつもの友達がいて、僕もその輪に入った。初めて祭りの光景を見たけれど、本当に大したことはなかった。欲しいと思えるものなんて一つもなかったけれど、妥協してねりあめを買った。割られていない割りばしにぐにゃんと物体を付けられて、それをそのまま舐めてたら友達に「混ぜないと」と注意されたような気がする。たったこれだけの会話で楽しかった。

 その後は拝殿をぐるりと一周するきもだめしが行われた。僕は木陰でねりあめを食べながら、誰かが来るたびに「ワッ!」と驚かせる役回りだった。驚かせる方はめちゃくちゃつまんないということを小学生の感性から思うしかなかった。

 

 翌日は、彼らと祭りの話で盛り上がって、思い出を共有してさらに楽しかった。ただ、その中には昨日来ていなかった友達もいて、僕は彼の目がとても気になって仕方がなかった。会話に参加できない困惑と落胆の目は、そっくりそのまま去年の自分だった。みんなが祭りに行っていて、自分だけが行けていない。この事実が彼の心を揺さぶっている。

 

iPhone VS Android の陰で

 

 高校生にもなるとみんながスマホを持っていて、ガラケーを含めた携帯電話を持っていない人なんてクラスに1人もいやしなかった。今でこそAndroidの地位は向上しているが、日本人総出でiPhoneを所持していた時代が懐かしい。少数派のAndroidは小ばかにされていた。そしてどちらもが学生総出でパズドラに時間を浪費していた。昼休みにパズドラをしている奴がいると、後ろのドアから教師がこっそりやって来て、放課後までスマホを没収されるという光景がよく見られた。そして、僕はそれすらうらやましく思っていた。

 僕はというと、中学3年生になってようやくガラケーを買ってもらって、その状態が高校1年生まで続いていた。周りで楽しそうにワイワイパズドラをしているのを横目に、僕はついてない時代に生まれちゃったな、なんて思った。スティーブ・ジョブスはとんでもないものを創りだしてしまったのだ。

 ラインの普及も著しかった。僕は参加していなかったけれどクラスのグループラインがあって、試験前には情報交換のためによく動いていたようだ。だが、僕がそれを知れるのは仲のいい友達からの情報だけだった。気を使ってくれてわざわざ話してくれたけれど、それがいちいち心苦しかった。今、僕がインターネットを全肯定できないでいる原因はここにあるんだと思う。まやかしの繋がり、というのはあまりにも安直な言葉だけれど、今こうしてスマホをもって多くのやり取りをしている現状におかれても、実際に会って話すことの大切さを強く意識している。

 

 ただ、やっぱり僕の知らないところで、みんなが着々と仲良くなっているような気がしてならなかった。たかが高校生、別に大した話なんてしている訳なんてないんだけれど、「大した話」じゃないからこそ僕たちはゲラゲラ笑えたり、記憶に残ったりする。親に直談判して「このままだと僕はいじめられる」なんて嘘をでっちあげて、しぶしぶスマホを買ってもらった。ガラケーの時も同じ作戦を取ったのだけれど、今回も無事成功した。

 ショッピングモールに出店しているケータイショップに親と行って、クソ低スペック激安スマホを買ってもらって僕は死ぬほど舞い上がった。車での帰り道の間にも写真を撮りまくった。その写真は残念ながらスマホがぶっ壊れたと同時に失われたが、今でもどんな写真だったか覚えている。立体駐車場から降りてきて、車内で早速スマホをいじり倒して、料金を精算する機械のあたりで試しに撮ってみた。カメラは質が終わっていて、あまりにもビビットな前の車のブレーキランプが目をつんざくような写真に仕上がった。

 スマホを買ったと高校2年生になってみんなに言いふらすのも恥ずかしかったから、気心の知れた友達にこそっと教えて、ラインを交換して新しいクラスのグループラインに入った。今あるかどうか分からないが、「フルフル」みたいな全く使われない友達追加のやり方をあえてやってみて、全然うまくいかなくて面白がっていた。何か自分も仲間に入れたような、そんな気がしてならなかった。

 

 あれから数年を経て、スマホの普及というのは日本社会の隅々まで行き届いた。たまに電車でガラケーをポチポチしている人を見ると、その物珍しさに見入ってしまうくらいだ。当時の僕はそのガラケーを心の底から憎んでいた。本当に気心を許した数人にしかガラケーのことは話していなかったくらいだった。僕は同調圧力みたいなものに囚われやすいタイプの人間なのだと思う。

 

みんなが良いと言うものを、僕も良いと思うこと

 

 流行というものは常に、人々の「乗り遅れてはならない」という欲求によって作られる。テレビで特集されたものであったり、今だとSNSでバズった「あの商品」というものがそうだろう。東京に旅行に行ったとき、めちゃくちゃ長い行列が出来ていてびっくりしたことがある。その先にはいったい何があるんだと野次馬根性でわざわざ先頭まで確認しにいったが、全く知らないお店だった。

 よく、それは本当にあなたが欲しいものなのかと警告する人がいる。みんなが良いと言っているから買うのか。確かに本当に価値のあるものはあなた自身が判断するべきだ、という主張も間違いではないと思う。個人的にネットに書き込まれた映画のレビューはどれも辛口で、実際に見てみたら面白かったなんてことはよくある。自分で実際に確かめてみて物の良し悪しを判断することの大切さは間違いなくある。

 みんなと同じものを体験して、同じような感想を口々に言い合うことは、自分が大衆のなかの一人であることを主張していることなのだろう。過激派に言わせればメディアに操作されているのかもしれない。

 

 僕はというとそんなことはどうでもよくて、おいしいものを食べたいし、楽しい時間を過ごしたいだけである。そして隣にいる人と「やっぱりいいね」なんて笑いたい。わざわざ逆張りする必要なんて一つもない。僕たちはどんなに裏にもぐりこんだとしても、みんな同じ人間であることには変わりなくて、だからこそみんなが良いと言っているものを自分も同じように良いと思うことの方が多いのではなかろうか。

 もちろん、話題になって実際に体験してみて、肌に合わないということももちろんあると思う。祭りに行きたくて仕方がなかったけど、実際行ってみたらそんなに大したことはなかった、みたいなことは当然ある。だが、宝くじも買わなきゃ当たらない。そんな経験も含めて多くの人と感想を共有するためには、まずはやってみなくちゃ分からない。

 右にならえの姿勢は当然批判されるだろうが、僕は別にスイーツ評論家でもなければ、ワイドショーの辛口コメンテーターでもない。自分で多くの中からわざわざ価値を見出すよりも、ただ流れてくる情報の方がむしろ信ぴょう性が高い。

 

 みんなが良いと思うものを、実際に体験してみて、僕も良いものだと思える人生も賢い選択肢ではなかろうか。