事なかれ主義のススメ?~不快感の3類型~

3つの類型

その1 「た、助けてくれ」

 高校生の頃、クラスメイトに首をつかまれて壁に勢いよく押し当てられたことがある。今では何の会話をしていたのかは思い出せないけれど、確か彼の行動を揶揄する冗談を言って、その言葉に激高したのだと思う。彼は暴君のような振る舞いを好む傾向にあったのだ。運よく近くにいた仲のいい屈強なラグビー部の一人に助けられて、今こうして文章を書くことが出来ている。その事件以来、当該加害者とは一切口をきくことが出来なかった。

 僕の脚が地面から離れそうになったとき、強烈な不快感が全身を襲った。暴力とはそれほどまでに不快感とイコールの関係にある。額に銃口を突きつけられた経験は今のところないが、即座に恐怖が押し寄せてくることは想像に難くない。

 

その2 「なんか嫌だなぁ」

 ホームで電車を待つとき、乗降客が多い駅ではルールあるいはマナーを守る必要がある。誰もが椅子に座りたがっていて、その欲求を堪えて律義に列を作っている国民性には頭が上がらない。僕は乗車時間が1時間でもない限り電車で座りたいとは全く思わないが、一方でこれらのルールをぶち破ってでも座席に向かって我先にと、降車する客を押しのける輩がいる。

 座ろうとはしていない僕ではあるが、そのような人を見ると何故だか「嫌だなぁ」と思ってしまう。それはつまり、規律違反に対する不快感だろう。自分が損をするか否かに関わらず、和を乱す行動には一定以上のそのような要素がある。もちろん「別にいいでしょ」と思う人が世の中に入ることも知っている。そして今頃彼らは電車の座席で一息ついているのだろう……。

 

その3 「僕ならこうするのに」

 小学生の頃、どうしても好きになれない奴がいた。毎日宿題を忘れては先生に怒られたり、勉強もできなくて、さらには体育でも運動音痴っぷりを露呈していた。その一方で彼は「いいやつ」でもあった。誰の悪口も言わなかったし、とにかく素直だった。だが、僕は彼に対して苛立ちを覚えていたのも事実だった。だからといって彼を叱る権利は僕にはないと分かっていながらも、先生に怒られていたり、運動会の練習でうまくいっていなかったりする彼を見ると、どうしても負の感情が立ち上がってきた。

 別に彼は悪くない。もちろん先生からすれば宿題を忘れた彼を叱るのは責務かもしれないが、別に僕たちがそれを咎める必要は全くない。実は僕も完璧に宿題を提出できていたわけではないけれど、反省して次の行動に移すことが出来た。つまり僕ならこうするのに、と彼の立場に立ったとき、その苛立ちは生じてしまう。君はそんな風に言われて嫌じゃないのか?と勝手に思ってしまうことは、僕の人生では案外多かったりする。

 

3つの分類

その1 直接的な不快感

 暴力は僕たちを直接的に不快な気持ちにさせる。例外はほとんど存在しない。誰だって進んで銃口を口にくわえようとはしない。これに合わせる形で、僕たちはこのような蛮行を行うべきでもない。いつだって暴力は誰かの欲求を満たすために行使される。

 誰かをぶん殴ったり、照準を誰かに合わせたりするだけではなく、直接的な不快感には暴言の類も含まれているだろう。この平和な社会でいきなり隣の奴が殴り掛かってくることはあまり経験することではないが、暴言であれば相当にあふれている。絶対に関わってはならない「ヤバい奴」が公共の場で喚き散らしている光景を少なくない人たちが目撃しているはずである。

 これらを避ける方法はあまりないのも悲しい話である。ピストルを持つ人を説得したところで、弾丸を弾く盾の代わりにはなり得ない。結局は我々も武器を手に取らない限り、相手の力のこもった人差し指を止めることはできない。歴史というものが人類が為してきた「戦い」の記録ばかりを含んでいることにも明らかだろう。

 

その2 社会性がもたらす不快感

 規律違反に対して我々は過敏であるべきだろう。例えばあなたが無人島に一人だけで暮らしていたとして、夜中に大声で喚き散らしていても誰も何も言ってこない。中学生の頃に岩波少年文庫から出ている『ロビンソン・クルーソー』を読んだとき、なぜ彼は無人島でも凛とした現代人として振る舞えているのか疑問に思った。この物語が意味するところは、人間は数多の人間の集合体である社会のなかで、無用な争いごとを避けるために敷かれた法律に則って行動せざるを得ないということである。僕たちが意識せずとも身に着けた社会性が、違反者に対しての不快感を生み出していると言えるだろう。

 法律に始まり、公共の場でのルール、はたまた地域特有の暗黙の了解など、人間の集まる場所には必ずと言っていいほどルールが存在する。アナーキーという言葉があるが、これは独自として存在するものではなく、秩序ある社会の対義語としてしか存在することが出来ない。争いを避けるためのルールが無ければ、僕たちは時として理性を失い、馬鹿げたことを行ってしまう。

 「社会性がもたらす不快感」を避ける方法はあるにはあるが、残念ながら現実的とは言えない。それはつまり、現代のロビンソン・クルーソーになるしかないのである。別に無人島までボートを漕ぐ必要なんてなくて、今から死ぬまで公の場に一切でなければこれらの不快感とは全く接点を持つ必要がなくなる。ただ……。これ以上先は話の本筋とは異なるので深追いはしないが、クルーソー君からのお手紙が我が家のポストに届かないことは明白である。

 

その3 親心がもたらす不快感

 冬の寒い日、薄着で小学校に向かおうとすると、母が「そんな寒い格好して、風邪ひくよ?」とよく言ってきた。幸い愛された子供として(父はそうではなかったが)、無事に大人になることが出来たが、彼女の親心は一種の不快感と繋がっていると僕は考えている。

 口にするとかしないとかの表層的な事実に言及したいのではなく、充足されていないものをみると僕たちは何らかの思いが沸き起こってはこないだろうかという話である。例えばスーパーの棚に整然と商品が並んでいたとして、そのなかのたった一つの列がぐしゃっとなっていると、無性に気になっては来ないだろうか。

 ただ、この気持ちに対して全く共感できない人がかなりいることも理解している。つまりは、僕が言う「親心」というアバウトな言葉を一種の「象徴」として、これら類似する心理状態を一括りにできはしないだろうかという試みとして受け止めて頂きたい。おおよそ主旨は「直接的な不快感」、「社会性がもたらす不快感」以外の種類の不快感が少なくとも一つは存在しているという事実の提示にある。

 

不快感との向き合い方

 そもそも不快感とは何かという話を全くしてこなかったことにはいくつか理由があるが、そこは具体例を通じて感じ取って欲しかったため、最後にこのように付け足している。「快」ではないという広い捉え方をされると、途端に議論の幅が広がって主張がぼやけてしまうだろう。

 僕のいう「不快感」とはとりわけ他者と自分との関係から生じるものに限定している。例えば病床に付していたり、欲求(三大欲求、自己承認欲求など)が満たされないときに不快感を覚えるが、これらは今回の議論の範囲外である。自己承認欲求に関していえば他者との関係の上に生じるもののようにも感じるが、矢印はほとんど自分に向いていることから今回は取り上げなかった。

 

その1 暴力

 暴力に対して強烈な不快感を覚える理由なんてものは探す必要はない。このような感情を持たない動物は真っ先に絶滅していって、今頃地中深くに骨だけを残していつの日か化石として出土する他ないからだ。それはつまり生存競争の中で獲得されたホモ・サピエンスの「特徴」といえるだろう。僕はこの考え方があまり好きではないのだけれど、事実だからしょうがない側面もある。「なんで○○なのか」という疑問は的を射ていてなくて、「○○以外は全員死んだ」が本当の答えなんて、あまりにも味気ない。

 一方で人間はその暴力を手段として使うこともできる。何も人間の敵はチーターやライオンだけでなく、人間自身も敵になり得る。というよりも人間こそが人間の敵であることは誰もが頷ける事実であろう。言論を暴力によって封じ込めることの傲慢さにはため息が出る。だが、この事実が暴力の強制力の証左となっていることは明らかである。たった一人ぽっちの人間が対抗することの無意味さを理解しているからこそ、僕たちは秩序ある社会を意図的に形成する必要があったのだろう。

 

その2 社会性

 「社会性がもたらす不快感」は僕たちが持つべくして持っている能力だといえる。この不快感から逃れる方法はあまりなくて、だからこそ必要不可欠なものであると言い換えることもできるのではないだろうか。秩序ある社会に暮らす僕たちが身に着けるべき能力であって、これらを忘れたり意図的に感じないようにするべきではない。子供の頃はいつだって自分が中心だと思っていて、他者という存在が薄っぺらかったりする。当たり前の話だが、成長の過程で僕たちは特定の社会のなかで、特定の社会性を獲得していく

 馬鹿にするんじゃないと怒られてしまいそうだが、時として人は当たり前の事実をさっさと読み飛ばして、より詳細なことを追い求めようとしてしまう。WEBサイトの会員に登録するために一度も目を通さない利用規約とは話が違うのである。すべてが正しいルールだとも思わない。あえて名前を出すと角が立つのでそれは控えたいが、例えば田舎の煮詰まった人間関係の中で醸成された暗黙の了解についてあなたはどう思うだろうか。つまりは、程度の差こそあれ組織はルールによって秩序を維持する必要がある。 僕たちは無用な争いを避けるために(あるいは争いの後に)、社会の中で「取り決め」を定めるのだろう。

 

その3 親心(その他)

 人間がいるということは、彼(彼女)には親がいる。もちろん享受できない場合もあるが、僕たちは親から無償の愛を受けて育つ。とりわけ幼少期は全肯定される全能感を味わって、そのなかで「愛」という感覚を自然に身に着けることが出来る。これらは親子間で生じるだけのものに限らず、友人や恋人に対しても湧き起る感情である。もちろん人によってその大小はあるにしても、概念として明確に存在しているものだと思う。

 ここで嫌な話をしたくはないのだけれど、避けては通れないのであえて話題に出すが、時に人のことを全く思いやれない人が、何かしらの「ただならぬ厄介事」を起こすことがある。この事実が指し示すことは、社会性というものの根底には必ず親心あるいは愛という概念が存在しなければならなという教訓ではなかろうか。ロボットが何体集まったところで秩序ある社会は形成されない。家族以外の他人にも愛情(あるいはこれに類似するもの)を提示できる血の通った人間こそが、秩序ある社会を形成することが出来るんだと思う。

事なかれ主義のススメ

 僕は僕自身を出来た人間だと思ったことはない。むしろその逆で、自分でも驚くほどの負の感情に精神を飲み込まれることがしばしばある。その言い方はないんじゃないか、なんちゅう運転してるんや、マジであいつ許せねぇ、等々。その度にもっと精神的に大人になる必要があるなと反省している。今回なぜこんな重いテーマを選んだのかというと、自分の感情にしっかり向き合って、その上である程度納得出来るのではないかと思ったからだ。

 右の頬をぶたれたら、とりあえず僕はブチギレながらも両手を地面につけて頭を下げることしかできない。できるだけ不快なことは避けて通りたいし、もし起こったとしても、その場しのぎ的な感情のやりくりの仕方しか知らない。

 でも、それでいいとも思っている。左の頬を差し出すことも、拳を固く握りしめることも、僕の性に合わない。だからこそ、この感情について隅から隅まで虫眼鏡で確かめてみて、「あーこうなってんのね」と納得する方法を選ぶのだ。

 

 事なかれ主義のススメ、というのは嘘である。こういう生き方しか出来ない人がいる事実を、ただ知ってほしいだけなのかもしれない。