一万円札から逃げようよ

ポケットの中には

 

 数年前の僕はほとんどの支払いを現金で行っていた。もちろんクレジットカードを使ってアマゾンで散財することもあったが、スーパー、コンビニ、ユニクロのどの支払いなどのほとんどすべてを現金で行っていた。ただ、僕はできるだけ一万円札を財布に入れないようにしていた。

 一万円札というものは「円」という通貨の最高額という存在でしかないが、あのうすっぺらい紙のもつ威厳は今でも感じるものがある。

 

 10,000円札

 

 なんでもやれそうな気がする。カラオケでご飯をめちゃくちゃ食べてもそんなにはいかない。ユニクロで全身揃えることが出来る。ただ、凱旋は無理だ。でも、マイジャグラーⅢには座れる。ハチャメチャはできないけれど、十分楽しい思いが出来る金額だと思う。もちろん人にもよるが。

 僕は親から定期的な小遣いをもらってはいなかったが、友達と遊びに行く前にせびって5,000円くらい渡してもらっていた。もちろんすべてを使っていいわけではなくて、余った分は返却を要求された。高校生のときの話である。

 大学生になってしばらくしてからバイトをするようになって、なんとなくだけどお金の価値を理解した途端、「クソ!もったいねぇ!」と後悔することが多くなった。何人かで居酒屋に入って、終る頃に「それじゃあ一人○千円ね~」なんて言われたりすると、それを時給で割り算してため息を吐いていた。酒も大して飲めないし、ご飯もあんまり食べない僕って、この中で一番損してるよな、なんてみみっちい発想をして、その度に器の小さい人間になったなと自分を笑った。

 

世はまさに、大電子決済時代……

 

 そういった経験をいくつも経て、徐々に一万円札という物体にバイアスがかかって、福沢諭吉が「なんでもできんだからな、オレがいりゃ」とにやりと笑ってくるような気がしてきた。だから口座からお金をおろすときは9,000円を上限として引き出していた。財布にできるだけ1万円札を入れたくなかったのだ。この話を彼女にしたときに、すべて千円札にしてもらう裏テク(?)を知らないのかと馬鹿にされ、びっくりしすぎて言葉が出なくなったその瞬間まで、この意味不明な引き出し方は続いた。

 しかし、その頃には電子決済ブームとでもいうような、PayPayを筆頭にした数々の決済方法が乱立し、世はまさに大電子決済時代を迎えていた。少し興味をもってやってみようかとも思ったけれど、面倒くささが勝ってしばらくは現金での生活を続けていた。

 ところが色々の事情も絡みあいながら、僕はPayPayを使い始めることとなる。僕自身の口からはあまり言いたくないのだけれど、ヒントその1「パチ屋では現金しか使えない」から何かを感じ取っていただきたい。

 

 電子決済を使い始めると、その便利さのとりこになってしまって、僕の財布にあの三傑の姿を見ることはなくなった。何ならレジでお釣りを少なくするために小銭入れをごちゃごちゃしている人を見ると「君もPayPay使おうぜ~」と肩を組んでニコっと笑う、ということはもちろんできないが、そうしたい気持ちで溢れてくるようになった。

 お店の入り口にあの赤と白のステッカーが張ってあるとテンションが上がったり、旅行先でキャンペーンをしているのに気づかなくて、会計時にたまげるくらいのポイントが付与されている(正確には付与されるのは1月後)ことに気づいて舞い上がったりすることもある。

 

 残高:10,000円

 

 スマホの画面で見るゼロ4つは僕に何の気持ちも抱かせなかった。口座からPayPay内の残高を増やす仕組みなので、別に財布に入っているとかそういう感情にすらならない。預金残高を分母とした10,000という分子であって、何かを想起させる雰囲気はそこにはない。支払いの時に実際のお金を触らないので、価値に対する尺度が変化していることにも気づいた。だからといってハチャメチャに使いすぎてしまうものでもなくて、毎月少しずつではあるが貯金も増えている。

 

おばあちゃんの10万円

 

 大学を卒業するときに、父方のおばあちゃんが僕にお祝いだといってお金をくれた。本当のことをいうと、僕はあんまり嬉しくなかった。むしろ悲しい気持ちになった。帰りの車のなかで母が「いくら入ってたの?」と聞いてきた。母の名誉のためにあえて言うが、べつに彼女はやましさや卑しさのために言ったのではない。むしろその逆で、おばあちゃんに対して気を使っているのである。

 僕は白い封筒をそっと、開いた。というか受け取ったその瞬間にその厚みに気づいてはいた。

 

一万円札が10枚入っていた。

 

 人にこんな金額をもらったことは未だかつてなかった。僕の心は申し訳なさでいっぱいになって、なげやりに母に返答した。僕は人から10万円をボンッともらっても素直に「よっしゃー!」と喜べる人間ではなかった。お得意の「割り算」でお金の価値を推し量って、悲しい気持ちにもなった。僕はこのお金を受け取るに足ることをしたのか?

 その10万円でスーツを2着買った。確か寸法してもらって、オーダーメイドで作ってもらったものだったと思う。後日商品を受け取って改めて袖を通してみると、おばあちゃんに対する感謝の念がひしひしとにじんできた。スーツを買いました。これから社会人として頑張るね。電話でそう伝えると「頑張ってね」と返してくれて、笑顔で涙ぐんだ。

 

お金がお金として存在する恐怖から逃げよう

 

 お金の価値は場面や状況によって大きく異なる。給料として口座に振り込まれたり、大好きな人から手渡しでもらったり。電子決済を使い始めて気づいたが、お金をお金として意識しないで、自分にとって一番有意義かつ納得できる使い道に流れていくときに大きな喜びを感じるんだと思う。

 諭吉が10枚集まるとめちゃくちゃ怖いことをおばあちゃんから学んだ。現金というものは僕を狂わせる。現金を店員に手渡す場合だと「俺はこんだけ使ってやったぜ」みたいな変な満足感に陥って、買い物を手段としてではなく目的として見てしまうことはないだろうか。

 

 お金が喜びの尺度になってはならない。お札や硬貨というのは人間の手によって、目に見えない価値を無理やり具現化した幻に過ぎない。以上が僕から伝えられる教訓である。